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2026年8月28日金曜日

セミと季節感、そして奇跡の夏

この投稿を書いているのが8月下旬。 

今夏も、連日の猛暑に心身ともに為す術なく、クーラーを前に防戦一方の毎日です。
更には、「酷暑日」なる新たな気象用語まで出現。まさに熱中症に怯える日々は続きます。


SimoneVomFeldによるPixabayからの画像


ところで、私が住んでいる横浜では、今年は7月15日にニイニイゼミ、アブラゼミ、ミンミンゼミが同時に鳴き出しました。かつては、夏が来ると先ずはじめに鳴き出すのが、ニイニイゼミでしたが、そんな秩序はとっくの昔に破られた時代。蝉の鳴く順番も野放図で、何から何まで掟破りの「何でもあり」の時代ですから、現代は。


例年なら、8月下旬から9月初旬に鳴くはずのツクツクボウシが、8月2日にはもう鳴き出しています(そのあとはパッタリ鳴かず、中旬になってまた泣き出しました)。

それで思い出したのが、ヒグラシのことです。去年、一昨年は私が住む地域では残念ながら、ヒグラシの鳴き声を聞くことはできませんでした。あの透き通るような鳴き声を聞くと、幼少の頃のほろ苦い思い出が私の脳裏に甦ってきます。

西の空がオレンジ色に染まる頃、雑木林のどこからか聞こえてくる、「カナカナカナ〜、カナカナカナ〜」の何とも物悲しい鳴き声。それは夕暮れの闇をどこまでも響き渡るような神秘的な情景でした。幼い子供にとっては、少しばかり不気味ささえ感じられたほどです。

小学校の夏休み、父親と二人でお盆の頃に、茨城の田舎へ6年間欠かさず出掛けた時期がありました。ヒグラシの記憶はその時のものです。日中は虫捕りなどに夢中で、横浜のことなど忘れていたのに、夕暮れになるとヒグラシの鳴き声は、妙に悲しい響きに聞こえたものです。横浜で待つ母親恋しさに、涙ぐむこともあったと記憶しています。

中学生になり私の役割は弟に引き継がれ、私自身は付いて行くことはなかったのですが、父にしてみれば田舎の伯父さんは里親なので、その後も義理堅く毎年訪ねていました。


LeopicturesによるPixabayからの画像


そんな訳で、セミ、なかでもヒグラシに対しては思い入れはかなり強いのです。今年もこの投稿を書きつつ、「今年こそヒグラシ鳴いてくれ!」と期待していますが、8月25日現在鳴き声は聞いていません。(この時期になったら、もう鳴くことはありません)


私が幼少の頃は、夏の季節は先ず6月中旬頃から梅雨入りし、7月上旬から中旬にかけて雷を伴った夕立(現在のようなゲリラ豪雨のように長時間ではない)がザーッとあって、いよいよ梅雨明けといったひとつのパターンがあったものです。そんなときは虹を見ることもできました。台風も大暴れした後は、「台風一過」と言って、気持ちの良い青空が広がり、草木は水滴を浴びて生き生きと輝いて、私たちの気持ちも晴れ渡ったものでした。

ところが、今の時代は何かが狂っているようです、自然も人間社会も。
「自然においては、地球温暖化が原因だ」と簡単に断定することはできませんが、否定することも出来ないはずです。

余談ですが、どこかの国のトップのように、温暖化を真っ向から否定る連中も、世の中には一定の割合で存在することも事実です。そして皮肉なことには、温暖化の禍はその元凶と思しき人たちではなく、文明の恩恵をさほど受けていない人たちの下に降り掛かっているのです。
ハワイに台風が接近したり、日本ではこのところ毎夏、線状降水帯が各地で発生し、洪水などで死傷者も出ています。そして、この投稿を書いている時期と重なりますが、ネパールで鉄砲水が発生し、多くの行方不明者が出ているとの報道も入って来ています。こうした現象は、深く考えるまでもなく、私たちの地球が悲鳴を上げている証拠なのです。


Gerd AltmannによるPixabayからの画像


話題をもとに戻します。

そう!毎年繰り返されてきた私たちの季節感は、淋しいことですがもはや消滅したと言えるのかも知れません。日本は春・夏・秋・冬の四季がハッキリしていて、世界中でも珍しい国と、確か小学校の頃教わった記憶があります。近年は春秋が短くて「らしさ」を感じなくなりつつあります。

やがて、「三季、二季になってしまうのでは・・・」と友人と冗談を交わすも、このところの気候変動を目の当たりにすると、現実味を帯びてきて不安になってきます。


そんな暗いことばかりが次々と世の中で起こり、心配症の私はストレスで押し潰されそうな今日このごろです。

そんな矢先「一筋の明るい兆しならぬ、3つの救いの光景」が眼前に現れたのでした。この表現は自分でもチョッと大袈裟で「クサイ表現」と思いましたが、敢えて使わせていただきました。何しろ、自然の素晴らしさ、逞しさは感動ものだったからです。


その3つの「救いの光景」とは、これです。

第一弾

この夏、3年ぶりに咲いてくれたプルメリア。①の状態になるまでに6ヶ月ほど掛かっていますが、その後の成長の速さは目を見張るものがありました。


① 2026年7月18日現在


② 2026年7月28日現在



③ 2026年8月4日現在

現在、この投稿を書いている時点でも、数は少なくなりましたが、まだ咲き誇っています。


第二弾

2026年8月8日の夜、我が家の裏庭で日除けに張ってあったビニールテープに、驚くべき光景が展開されていたのです。体の色からミンミンゼミと思える蝉の幼虫が、脱皮しているシーンなのです。
発見した時刻からわずか15分程度で、完全に殻から脱出しました。
その後はジッとしたまま、羽が完全になるまでこの状態③が続いたと思われます。
明朝7時頃に確認したところ、すでに姿はなく抜け殻だけが地面に落ちていました。

これまでも、セミの抜け殻は何度も見たことはありましたが、こんな脱皮の瞬間に出会えたのははじめてです。自然の力と生命の逞しさを眼の前で見れたことは貴重な体験です。


① 発見時刻は20:19頃

② 20:24頃

③ 20:34頃


第三弾

またまた、セミの話題です。
8月22日(土)の夕方にウチの奥さんが庭で発見。
呼ばれてその場に行ってみると、ななっ、何と!クマゼミではありませんか。」

写真は我が家のゴールドクレストの樹に止まっていますが、実は奥さんが発見したときは、地面にひっくり返っていたとのこと。手で触れないので私が呼ばれ、樹に止まらせてあげた次第です。

地面に横たわったのをソっと拾い上げたところ、一瞬鳴き声を発したのでオスのようです。

ただ、本来クマゼミは警戒心が他のセミに比べ断然強いので、このような人の気配があるところには来ません。恐らく、何らかのアクシデントがあったのでしょう。だいぶ体力を消耗して弱っている様子が見てとれました。

セミの一生は、土の中で3〜5年、地上に出て2週間から1ヶ月程度と昔から言われています。私が幼少の頃は、セミは「儚さの象徴」と思われていました。第二弾の脱皮のシーンもそうですが、自身の眼の前で展開されているクマゼミの姿を見ていると、なんとも切ない思いと命の尊さを感じずに入られませんでした。


この日は夜になって、チョッと強めの雨が降り出し、クマゼミのことが心配でしたが、翌朝その場に行ってみたところ、その姿を確認することはできませんでした。果たして元気を取り戻し、元気に飛び立ってくれたのでしょうか。(そう望みたいです)


8月22日16:50



クマゼミはかつては関西が生息域で、関東、少なくとも私が住む横浜では生息していませんでした。それが温暖化などで北上し、最近では関東周辺でも活動領域を拡げているようです。

小学生の頃、私は虫採り少年でしたから、あらゆる種類の昆虫を捕まえた経験があります。夏休みの課題報告(宿題)のひとつに、昆虫採取の標本を出したこともありました。そんな私でもクマゼミだけは一度も採ったことがありませんでした。昆虫図鑑でその姿を見るも、実際の姿をみることはできなかったのです。以前、三重県の知人宅へ行ったときも、鳴き声はすれど近づくと素早く飛び立ってしまうのが、クマゼミだったのです。体はセミの中では一番大きいのですが、臆病で警戒心が強いことも特徴のひとつなのです。

今回、そんなクマゼミに触ることができたことは、クマゼミにとっては迷惑だったでしょうが、永遠の憧れで終わってしまうだろうと思っていましたから、私としては非常にラッキーでした。
10年ほど前に、カブトムシが2日連続で我家のベランダに飛んできたことがありました。
今回は、ひと夏にセミの貴重なシーンを2つも見られたのですから、それ以来のまさに奇跡の夏と言えるでしょう。

最後までお読みいただきありがとうございます。
from JDA






2023年2月17日金曜日

気まぐれ天気 vs. 天気予報

気まぐれ天気 vs. 天気予報

最近の天気は気まぐれです

この記事を書き始めたのが、2月14日。

そうバレンタインデーの日だったが、今のわたしはバレンタインデーとは無縁で、そんな生活が十数年続いている。

今年も例外ではなく、恐らくその記録はこの先も延び続けるだろう(笑)。


さて、これからお話しするのはそんなわたしの哀れなバレンタインデーの思い出話ではない。


今回のテーマは最近気になる気まぐれな天気と天気予報についてだ。
わたしなりに考えたことをまとめておきたいと思ったからだ。




さて、仕事を離れてからは以前ほど気にしなくなった天気予報。

とは言え、天気はその日1日を左右する最も重要な要素だと思っている。

そこでこのところ気になるのが昨今の新聞やテレビによる天気予報の予報精度だ。


快晴の予報だったのが曇りだったり、その逆もありと外れることが多いように感じる。

ここ数日はハズレが続き、バレンタインの14日は、予報では私が住む横浜は朝から太陽マークの快晴のはずだったが、実際はどんより雲が空一面張り詰め、結果的には1日中晴れ間はなかった。


「最近の気象庁は怠慢だ!」なんてストレートに言いたいところだが、

正直なところ同情の気持ちも持っている。

この件について、ハズレ予報が多いことも問題だが、それ以上に関心なのが「何故ハズレるのか?」だ。

現在、天気予報を支える技術環境は以前にくらべ格段に進歩しているのに、その精度は一向に上がらない。

まずは「その原因は何故か?」をわたしなりに考えてみた。

◆


素朴な天気予報

わたしのように昭和に生まれた人間は、お爺さんお婆さんあるいは両親など年配者から、

「西の空が夕焼けなら、明日は晴れ」とか「薄暗かったら、明日は曇りか雨」なんて

長年の経験と感に頼る大雑把な予想を日頃聞かされていた覚えがあるが、今思うとこれが意外に当たっていたように記憶する。

いつの時代から言い継がれてきたことなのかはわからないが、先人達の言い伝えもなかなか侮れないと思う。




ところで、わたしは昔からヘソ曲がりなところがあって、この天気予報の問題も次のように穿った考え方をしてしまう。

それは、気象衛星、スーパーコンピューターなど最新のテクノロジーを駆使しても、自然(気象)の激変ぶりには最新テクノロジーも着いていけないのが現実かと。
端的に言って、その変り型にはパターンがないからだ。


近年叫ばれている地球温暖化の影響で、自然現象は大きく変わった。
それは動かし難い既成事実だ。(世界には頑なに認めない人たちもいるようだが・・・)

その変化によって、以前の日本ではあまり見られなかった線状降水帯やゲリラ豪雨などの新たな現象がわたしたちの目の前でも起こり、甚大な被害をもたらしている。

さらにその現象は局地的に発生するため予想がしづらいのが特徴だ。
膨大な過去のデータを読み込ませたスーパーコンピューターは結果の分析には役立っても、
こうした予測の分野ではまだまだ未熟なのだろう。

◆


厄介な「想定外」という言葉

こうした状況から思い出されるのが「想定外」という言葉だ。

ワンパターンが大好きなコンピューターにとっては、この「想定外」が一番苦手分野。


世界を見渡しても、ある地域では過去にない気温の上昇や干ばつ、別の地域では長時間にわたる豪雨により河川の氾濫や洪水など、さまざまな地域で両極端なことが起きている。
それをわたしたちは「想定外」という言葉で都合よく切り抜けているが、それは単にことを先延ばしにしているに過ぎない。何の解決にもなっていないのだ。

もはや、こうした現象が、いつ、どこで、どの程度の規模で起こるかを的確に予測することは、極めて難しいことはわたしたち素人でも容易にわかる。
そして、幸いなことに、こうした警報に関する技術的レベルは現在でも一定程度まで達しているので、その精度を高めるよりも、起こり得る被害をいかに小さくできるかの研究開発や避難ルート、避難場所の確保などに重点をおき工夫した方が建設的かつ現実的だと考えてしまう。(残念ではあるが・・・)



わたしたち人間は「バベルの塔」の神話ではないが、歴史的にみて自らの能力を過信し弄んできたように思う。特に近代においては。

だからと言って、いまさら「そのツケをわたしたちは今払わされている」なんて寓話的で説教めいたことは言うつもりはないが、人間が自然を壊してきたことはどう抗っても明らかなこと。
大いに反省し、壊した自然をできるだけ元の自然に戻せるように努めることが、
今を生きるわたしたち人類が行うべき最優先課題だと思う。

今やるべきことは人と人との争い(奪い合い)ではない。


話は多少本筋から逸れてしまったが、このままだと天気予報はハイテクを備え理論武装だけ整えた単なる分析器だ。

仮に、気象関係のお偉い方々が予報の精度を今以上に上げようと考えているのなら、わたしは現状の精度で十分だと言いたい。多少のズレはあったとしても、そのミスを受け入れる寛容さは持っているつもりだ。わたしたちの天気予報の利用の仕方、期待度を修正すれば済むことだから。
現在のように天気図や週刊天気図などを凝った画像にしたり、頻繁にそれを変更したりと無駄なことが多いように見受けられる。
視聴者が期待しているのは上記のようなことではない。

しかしながら、天気予報の番組に趣向を凝らしたり、予測精度向上のために多額の費用をこの先も費やす意向ならば、むしろその莫大なお金は別のところへ回すべきだと思う。

「一体いまの天気予報はどこを目指しているのか?」そして「気まぐれ天気にどこまで付き合っていくのか?」それがはっきり見えてこない。

今一度、わたしたちは天気予報のあり方を考えるべきだと思う。

最後までお読みいただきありがとうございました。

JDA 2023.02.16