2017年4月17日月曜日

いつも通りが実は・・・


今年もいつもの場所に、いつものように桜が咲きました。
多少の時期のズレはあるものの、毎年決まってこの季節に咲くのだから、自然は大したものだと感心してしまいます。
人間が管理していたら、ついウッカリなんてことがあって、咲かない年が恐らくあるのでしょう。
そう考えると、実にありがたいことです。

2017年4月13日撮影

今年はというと、当初の開花予想よりは遅れたものの、
各地で美しい花を咲かせ、わたしたちの目を楽しませてくれました。
何気ないことだけれど、こうした季節の繰り返しは私たちが生きて行くうえで極めて大切なことだということを、わたしたちは兎角忘れがちです。
単純な繰り返しの毎日は一見退屈で苦痛に思えますが、実はそこにこそ私たちは安らぎを覚え安心を感じているのです。

しかしながら、残念なことに人間はこうした「いつも通りのことをできること」を当たり前のことと捉えて軽視しがちです。自分の生活がいつもの軌道から外れて違和感や不自由を感じたとき、はじめてその重要性、有難さに気付くのです。
ルーチンといういつもながらの行動パターンが如何に尊いかを知らされる瞬間です。


以前よく耳にしたことわざに「隣の芝生は青い」というのがあります。
最近はあまり使われないのでしょうか?
この言葉はこうした人間の心理を実に上手く現わしていると感心します。
他人のことが気になり、その上現状に飽き足らず常に新しいものを求めるという心理。

ある意味、人間の歴史はこうした欲望や嫉妬の歴史と言えなくもありません。
一方で、こうした欲望や嫉妬があってこそ人類の発展があったという考え方もあります。

新しさや変化を求め挑戦することは人間の営みの中で必要不可欠の行動です。
古臭い考えかも知れませんが、特に若い世代にとっては、こうした情熱は彼らの特権でもあるはずです。時には、隣の芝生が青く見えることも必要なのです。
ただ、わたしがここで言いたいのは、その歩みをチョッと止めて人生や自分自身のことを見つめ直すゆとりが欲しいということです。


アルベール・カミュの作品に「シーシュポスの神話」という人生の不条理を題材にした短編があります。シーシュポスは神を欺いたために、その怒りをかい大きな岩を山頂まで運ぶという罰をあたえられます。やっとの思いで運び上げた大岩は、頂上に達した瞬間自らの重みでまた麓まで転げ落ちてしまうのです。
シーシュポスはそれを何度も繰り返しますが結果はいつも同じです。


シーシュポスの神話
カミュ著 清水 徹 訳 新潮文庫

過酷さと徒労の象徴として、この「シーシュポスの神話」はよく例に挙げられます。
しかしながら、わたしがこの物語で注目したいのは、チョッと違います。
一度、頂上まで運んだ岩が無惨にも麓へ転げ落ちるのを絶望とともに見つめた後、
再び岩を運ぶため麓へ降りて行くまでの下山の道のりがあることに注目するのです。
その間、シーシュポスは何を考えていたのかに関心があります。
この悲惨な物語でわたしがひとつ救われるのは、徒労の連続の中でこうした考える時間(下山のひととき)、言い換えればその余裕の時間がシーシュポスにあったということです。

正直なところ、「努力していればいつかは報われる」といったセンチメンタリズムはこのお話にはありません。
不条理なことなんて、生きていればいくらでもあるのですから。
一番良くないのは、不条理なことに直面したとき、それに押しつぶされてしまうことだと思います。

単純な繰り返しが自分にとって決して徒労ではないことに気づくことが大切なんです。
若い人たちには「気付く」が無理なら、「信じてみる」のはどうでしょう。
タップリ時間はあるのですから。

そして、来年も満開の桜を見ることができたら、一息入れて、生きていて良かった、いつも通りで良かったと自然に感謝すれば良いのです。