2025年5月11日日曜日

やっぱり、レコードはいい!

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  先日、長年使っていたパイオニアのアンプが壊れた。それより数週間前にはヤマハのCDプレイヤーがCDの後半になると音飛びして調子が悪くなっていて、結果的にはこちらも壊れた。
その他にもドライヤーが熱風が出なくなったり、洗濯機のドラムの回転がおかしかったりと、ここ数ヶ月の間に電化製品の故障が連続した。
その昔、友人が「電化製品って連鎖反応的に故障するんだよな~!」と渋い顔をして嘆いていたことを思い出した。

若いころから特定の宗教を信じる訳でもなく、熱狂的な支持政党がある訳でもない私は、当時の友人の話を半信半疑に聞いていたのだが、この電化製品の連鎖的故障に遭遇し、友人の意見には一理あるような気がしてきた。
突然の臨時出費に少々気落ちしていたのだが、「捨てる神あれば、拾う神あり」とはよく言ったもの。
連続する電化製品の故障から思わぬ再発見があったからだ。
今回はそんな「瓢箪から駒」的な嬉しい再発見のお話だ。


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さて、私は中学生のころからクラシック音楽が大好きで、高校までレコード鑑賞部に入っていた。部と言っても名ばかりで、私の入部以降は部員不足でわがレコード鑑賞部は同好会に格下げになってしまった。それでも文化祭のときはクラシック音楽の普及を目指し(?)、レコード鑑賞会を開催したこともあったが、結果としては部員拡大には至らなかった。
当時は、いまほどクラシック音楽は一般的ではなかったのだ。


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<学校の音楽室に必ずあるベートーヴェンの胸像>

ちなみに、高校卒業のときには部員は私一人きりで、卒業アルバムの部活紹介ページには顧問の先生とのツーショットが掲載され、そのときだけレコード鑑賞部は話題にのぼった。
当時は気恥ずかしかったが、今思えばよく一人で頑張ったと自画自賛である。

放課後、音楽室でひとり寂しく(?)グリーグのピアノ協奏曲を聴くのが私にとっての最高のひとときだった。中高6年間でいちばん懐かしい思い出である(笑)。

そんな訳で、私にとってクラシック音楽は日々の必需品なのだ。
よって、前述のようなアンプの故障は私にとっては一大事。取り急ぎ、替えのアンプにスピーカーをつなぎ、音だけは出るようにした。

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「果たしてセッティングは上手くいったかどうか?」と試しに何かを掛けることに。
しかしながら、前述のCDプレイヤーは完全な故障とは言えないが、あまり調子は良くない。
そこで登場するのが、このところ出番のなかったレコード・プレイヤーである。
日頃はCDかアップルMusicで音楽を聴くことが多かったから、レコード・プレイヤーは久々の登場だ。

手に取ったのがカラヤン指揮、ベルリン・フィルのブルックナーの第9番のレコードだった。(この後触れるが、結果的にこの選定が良かったことになる。)

ちなみに、カラヤンはベルリン・フィルとブルックナーの交響曲第9番を2回録音している。1966年3月、イエス・キリスト教会での録音と、1975年9月のベルリン・フィルハーモニーホールでの録音の2回である。


カラヤン ベルリン・フィルによる1966年盤の
ブルックナーの交響曲第9番

今回テストとして選んだのは、私としては思い入れが強い1966年盤の方だ。久しくかけていなかった一枚で、針を下すとレコード特有の「プツプツ音」はいくつかあったものの、盤の方は概ね良好だった。それよりも何よりも驚きだったのがレコードの音質の良さと、カラヤンによるブルックナーの交響曲第9番の指揮振りと楽曲解釈、そしてスケールの大きさだった。イエス・キリスト教会で録音されたこの第9番は、作曲家ブルックナーのこの曲への思いと指揮者カラヤンの演奏と解釈が完全に一致し、まるで教会内で聴いているかのような崇高な響きに、そのとき私には感じられた。
「レコードって、こんなに良い音だったんだ。やっぱりレコードはいい!」これが思わず出たそのときの感想だった。配線のテストとして掛けたのだが、ドンドン引き込まれ全曲聴くことになってしまった。


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この時のカラヤンのブルックナーの第9番については、触れると長くなってしまうので、こちらは別の機会とし、ここではレコード盤の素晴らしさを再認識したことについてお話することにしよう。

今の時代、わが国ではCD、レコードを販売しているショップも激減し、街の店舗で購入するとしたら大都市の大型CDショップへ行くか、中古ショップに限られる。あるいはネットでの購入という手もあるが、いずれにしても世知辛い世の中になってしまったものだ。

ところで、アップルのiTunesから始まったダウンロード・ミュージックは、最近では聞き放題のストリーミングが主流になり、CDやレコードは若者にとっては、遠い過去の遺物と化してしまったように私は感じているのだが、果たして実態はどうなんだろうか。

更に、音楽を聴くスタイルも以前とは大きく変わったように思う。私の時代はFM放送などラジオで聞く場合は、何かをし「ながら」聞いていたが、レコード盤で聴くとなると、部屋でステレオに向かってじっくりと構えて聴いたものである。

それが音楽を聴くデバイスが小型化するにつれ、イヤホーンなどでアウトドアで楽しむのが主流になり、いつでもどこでも聴けることが重要視されていった。

かつて、ソニーのWALKMANが市場をほぼ独占状態にしたことがあったが、あのときのミュージック・ソースはカセット・テープだった。
もちろん最近のミュージック・ソースはカセット・テープやCDではなく、MP3やWAVなどのデジタルデータだ。そして今はご存じ聞き放題のストリーミング配信の時代へと向かっている。


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便利になったものである。この先、私たちはどのようなスタイルで音楽を楽しむことになるのだろうか。おそらく、現在のAI技術を使ったスマート・スピーカーなどは更なる進化をするだろう。そうなると正直なところ私は、「期待」よりも寧ろ「不安」を感じてしまう。


例えば、スピーカーに向かってお願いすると好きな音楽を掛けてくれる機能は、いまの段階でもすごい技術だと思う。しかしながら近い将来、スピーカーが前もって人の心を読んで、好みの曲を掛けてくれるような機能にバージョンアップされる時代も、そう遠くはないのかも知れない。

このように革新的な技術によって、私たちのミュージックライフはドンドン便利になるのだろうが、その反面で操作する楽しさはドンドン減少してゆくように思える。
現状、PCの画面のボタンをクリックすれば音楽が流れてくる。あるいはデバイスに呼びかければ好きな音楽が流れてくるという手軽さは、確かに捨てがたいことだと思う。だが、その反面私などは、何か物足りなさを感じてしまう。いったい人間は何をすればよいのだろうと、アタフタしてしまうかも知れない。


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話題を音楽媒体に戻せば、正直なところ、音楽はダウンロードやストリーミングだけではダメだと私は思っている。
やはり、古い人間のわたしなどは、ジャケットからレコードをとり出し、ターンテーブルにレコード盤をのせ、静かにトーンアームを下すといった「一連の作業」が我儘なようだが、必要と感じてしまう。この作業があってこそ音楽を鑑賞するという気分になるし、贅沢なひと時を過ごしているという実感も沸くのである。


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更にもう一つデジタル音楽に欠けているのがジャケットの存在だと思う。
これに関しては、1983年以降のデジタル・アナログ論争でも盛んに言われてきたことだが、やはりCDやレコードのようにジャケットがないとインパクトが薄れてしまう。
ダウンロードやストリーミングは確かに手軽で便利だが、目に訴えるものがないから、記憶に残りづらいことは否めないと私は考えている。
私のように年齢を重ね過去を振り返ることが多くなると、媒体(CDやレコード盤)があることがとてもありがたいと感じる。
ジャケットがあると「あのCDを聴こう!」というときの手助け(閃き)になるのだ。
手に取るものがないと振り返ることもままならないからだ。

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長々と音楽ソースとその再生機器について書いてきたが、今回、レコードの魅力を再認識させてくれたのが、アンプやCDプレイヤーの連続故障だった。
それは俗に言う「不幸中の幸い」の出来事から始まったが、レコードそれ自体がわたしたちにとって馴染みやすい媒体だったからこその再発見だとも言える。

考えるに、レコードほど時代に逆行し、その存在を社会にアピールした媒体は今までになかったと思う。何しろ日本の社会で一度は絶えたレコード生産が復活したのだから。中古市場から始まったレコードの待望論は、その後レコードプレーヤーの新製品まで世に出すほどになった訳で、こんなオーディオメーカーを動かすほどの出来事は今までになかったことで、こうしたことが日本の社会で起きたとは信じがたいことである。

よく外国のドラマや映画を見ていると、主人公が自宅のリビングでレコードを掛けるシーンを見かけるが、ヨーロッパやアメリカではまだまだレコードが愛されているのかと思うと何とも羨ましく感じる。クリント・イーストウッドの映画や海外ドラマBOSCH(ボッシュ)のタイタス・ウェリヴァーが、レコードでジャズを掛けるシーンなどは、CDやスマートミュージックでは様にならないだろう。


chiến nguyễn báによるPixabayからの画像

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残念ながら、日本の社会は新しいものに対しては非常に寛容であり安易である。
そして、これまで愛用したものに対する愛着がチョッと希薄なように思える。
要は「新しいもの好きで、熱しやすく冷めやすい」国民性なのだろう。
それはこの私も同様で、悔い改めなければいけないと常々思っているのだが・・・

そう!1983年、CDが世に出たとき、音楽業界だけでなく社会全体がレコード派とCD派に分かれ、ながらく両派の論戦が続いたが、それでも時代の流れとともにレコードショップからレコードが消えていったことを昨日のように覚えている。どうしてあのとき二者択一でなければならなかったのか。現在のように、二者が共存しても良かったのではないかと。
この時も恐らく、日本人の気質が強く作用したのだと思う。
今回のレコード再認識の一件は、そんなことを私に示唆しているかのように思えた。。

今まで使っていたものが、新しいものの出現によって消えて行くのは、ある意味理解できるし、これまでの世の中の常識だったかも知れない。しかしながら、それはあまりに残念なことで大変に勿体ないことなのだ。便利さや効率化だけを追い求めるのではなくて、チョッと回り道でも、余裕のある生き方ができる選択も時には取り入れたらどうだろうか。

もうそろそろ私たちは「本当の幸福」とは何かを考える時だと思う。
今回、人類の発明品のひとつである「レコード」という製品を例にお話ししてきたが、この考え方はあらゆる事物に対して適用できると私は信じている。
私としては、第二、第三のレコード現象が起こることを願うばかりである。

それにしてもレコードの音は素晴らしい。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA