2023年4月21日金曜日

いま話題のステマにご用心!

 いま話題のステマにご用心!


昨今の食品をはじめとする商品の値上げラッシュ。私たちの生活はこの先どうなってしまうのか、憂いているのは私一人ではないはずです。それも上げ幅20%前後と、これまでとは比べ物にならないほどで、まさに私たちの懐は悲鳴をあげています。

この先いつまでこうした状況が続くのか、先行き不透明の現状に私たちは只々狼狽えるばかりです。それでなくても、新型コロナやウクライナとロシアによる紛争、そして世界各地で起きている自然災害など、気になることが次から次と起きていて、気の休まることがない毎日です。




そして、こうした不景気と不安定な世の中になると、目立ってくるのが詐欺まがいの行為です。善意を装い、人が人を騙す卑劣な行為、これが今のような生き苦しい不安定な状況下では増加するのですから、何とも世知辛く情けない世の中になったものです。

そんな卑劣な行為の代表格である「オレオレ詐欺」は、あの手この手と手口を変えて巧妙化し、被害は収まるどころか、被害額では増加さえしているといいます。

今回、ここで取り上げるのは、そんな「オレオレ詐欺」と同様に巧みに仕掛けられた、今話題の『ステマ』についてです。

人の心を弄び、騙す点では両者は共通していいます。


ステマとはステルスマーケティングの略です。何でもかんでも略さなくていいと思うのですがこのご時世。
それはさておき、意味としては「一見、広告であることを隠して宣伝する行為」です。

本来、ステルス(stealth)は英語で、「隠密」「こっそり行う」などの意味ですが、わたしはこの単語を初めて知ったのは、アメリカのステルス戦闘機(レーダー捕捉不能の)が話題になった時でした。

そして今、我が国で話題になっているのが、この「こっそり」の意味合いを含んだステマ(ステルスマーケティング)です。


消費者庁が先日(3月28日)発表したのが、このステマ行為に対して、景品表示法に基づく規制を10月1日から行うというものでした。


ここまでの説明では漠然としていてよく分からないという方に、具体例をあげてお話ししたいと思います。

例えば、最近の新聞(私の場合、朝日新聞)では一面まるまる広告というページが多く見受けられますが、この場合、ページの左上、乃至は右上に「全面広告」と必ず表記されているはずです。

左上に「全面広告」と表記されている


ですから、わたしたちはその記事を広告という前提で読みますから、このケースでは齟齬や誤解は生じません。

これが本来のルールです。


しかしながら、仮に、この表記がないとすると、人によっては新聞記事と誤解して、その製品(あるいはサービスなど)を広告以上に過大評価してしまうという懸念が生ずる訳です。

これがステマを仕掛ける側の意図するところです。

ですから、「全面広告」がない場合はステマと判断され規制違反でアウトになる訳です。


こんなのもステマでは? 消費者庁へ提言

わたしたちは兎角、テレビのコマーシャルなどを何気なく見ていても、それが宣伝と認識していれば「宣伝だからオーバーに言っているな」と、ある程度その物の評価を下方修正して受けとめることができます。

ですから、その商品を買うか買わないかの判断が的確にできる訳です。

ところがステマの場合、消費者が誤解するように意図的に仕組んでいますから、巧妙な詐欺と同じように騙されるケースが多くなる訳です。

仕掛ける側の言い分は「消費者が勝手に誤解したのだから」で、自分達を正当化しようとします。

従来、この辺りの解釈が消費者と仕掛ける側で食い違いがありトラブルにつながっているようです。

そこで、こうしたトラブルを未然に防ぐために法制化され整理されたのが、今回のステマ行為に対する景品表示法に基づく規制です。


ところが、このステマ問題、今年の10月以降規制が行われるとはいえ、ステマ行為かどうかを決定づけるには上記のような問題や様々な解釈があり、一筋縄ではいかないのが現状です。

例えば、皆さんも利用しているネットショッピングサイトなどで商品の感想を述べた「レビュー」です。
購入者が純粋に優れた商品と感じ好意的な評価(☆☆☆☆☆)として投稿されたレビューの場合は問題はありませんが、レビューを書くことで販売者側から購入者に何らかの対価があった場合などは判断が分かれるところで、微妙なケースが多々あるようです。




消費者庁はその点に関し、様々なケースを想定して現在も検討しているようですが、今回わたしがここで取り上げる事例は、ステマの規制に関する新聞記事等を読む限りでは、消費者庁が想定する事例に入っていないために、私としてはここで問題提起しておきたいと思った訳です。


その事例とは

かつて某テレビ局の生活情報番組「ためして**テン」で取り上げられた商品が、放送翌日には完売になるという社会現象が話題になりました。いわゆる、それほどの影響力がテレビにはあるとの噂がありました。

これは筆者も実際に何度か経験したことで、これは噂の範疇ではなく真実そのものでした。

かつて、「バナナが健康に良い」とある番組で放送されると、翌日スーパーのバナナ売り場はカラッポ状態とか、ラーメンの美味しい店が紹介されれば、同じく翌日からのそのラーメン店が長蛇の列などの現象が数えきれないほどあった訳ですが、その傾向はいまだに衰えていないようです。


こうした人間の心理をついたテレビ番組があの手この手と趣向を変えて、現在も放送され続けています。

そうした中で、わたしが「巧みだなー」と呆れてしまうのが、巨大ディスカウントストアーで展開される娯楽番組です。某有名タレントが常連客としてそのストアーを訪れ、日頃のショッピング光景を視聴者に公開するという類の番組です。




お気に入りのタレントさんが推奨する商品なら、自分も一度は買ってみようと思うのが人の常。そんな人間の弱みを巧みに利用した番組(商法)があるのです。
タレントさんが薦める商品の宣伝と巨大ディスカウントストアー自体の宣伝という具合に、番組内で長時間に渡り、しっかりと宣伝されているのです。
冷静に考えれば番組全体がコマーシャルと気付く筈なのですが・・・

そうかと思えば、同系の番組として、お笑いタレントなどがファミレスやフード・チェーン店の人気メニューを当てる番組や、そうしたお手頃店のメニューをミシュラン**星の一流シェフやカリスマ店主がメニュー評価する番組などもあります。

こうした番組は一見すると、金額あて、順位あてのクイズ番組形式になっているため、好奇の目で見入ってしまう訳ですが、冷静に考えると番組全般でその店のメニューを事細かに紹介し、出演者がヨイショしまくる「やらせ的」な要素が強いことがわかります。

それによって店のイメージは自ずとアップし、番組を見終わる頃には、視聴者は見事に洗脳状態になっているのです。




「一流シェフが太鼓判を押しているのだから間違いない、明日あの店の一番人気メニューを食べに行こう」といった人も視聴者の中にはいるのかもしれません。

あからさまに「この製品は良いです、安いです」といったコマーシャルよりも、この手の番組の効果、影響力は絶大で惑わされていることを私たち消費者は認識すべきだと思います。

以上が消費者庁のテーブルに乗っかっていないと思われる、ステマ規制に関する問題提起の事例であり、検討項目に是非とも入れていただきたい課題です。

実は、この手の番組は民放各社が視聴率が取れるからと、あの手この手と人を変え、店を変えて繰り返し制作され放送されてきています。
放送局もこの手の番組には「視聴率稼ぎ」の他に、思わぬ副産物(宣伝)が隠れていたことに気づいたのかどうかは「タマゴが先か、ニワトリが先か」同様わかりませんが、ドル箱番組であることだけは確かなようです。

そして、こうした番組は極めて巧妙に死角化されていて生活情報番組のように思えるため、消費者庁からはノーマークになっているのが現状と推察します。

是非とも、10月までの間にこうした手の込んだ番組の存在を確認いただき、規制対象の叩き台としていただくよう要望します。

最後までお読みいただきありがとうございました。


JDA 2023.04.21


2023年3月22日水曜日

新装なった神奈川県立図書館 後れ馳せの訪問

久々に神奈川県立図書館 へ



AlexaによるPixabayからの画像


先日、抱えていた幾つかの懸案事項が無事解決し、晴れ晴れした気持ちで久々に図書館に行ってみた。
わたしがいつも足を運ぶのは神奈川県立図書館です。

交通機関と徒歩で片道1時間程度のものですが、なかなかの運動量になり、程よい距離だと自身では思っています。(万歩計で片道4000歩ほど)


そんな神奈川県立図書館、実は昨年(2022年)9月に新装オープンしています。
わたしは新型コロナの影響で当館が一時閉館していたこともあり、しばらくはご無沙汰でした。

開館後も1、2回来館しただけで、訪れることをできるだけ控える、当時の言葉で「自粛」をしたまま現在に至っていました。
そのため、この日はほんとうに久々の図書館でした。



今回新築された新館は「本館」と呼ばれ、従来棟と隣接して建てられているので場所的にはほとんど変わりません。
現時点ではここだけがオープンしています。

従来「本館」だった棟は「前川國男(注1)館」、また、これまで「新館」だった棟は「収蔵館」と、それぞれ名称を変えて存続するようですが、現在はリニューアル中で一般の人は入れません。


新「本館」の印象について

先ずは、建物本体と場所についてです。
これまで青少年センターや県立音楽堂は知っていても、県立図書館は何処かわからないという人が多かったのではないでしょうか。
それくらい地味な存在だったように思います。

従来の2棟(旧本館と旧新館)は紅葉坂通りから多少奥まっていたので、分かりづらかったのも事実です。

今度の場所は従来棟と隣接していますが、紅葉坂通りに面しているので、これまでよりも分かりやすくなっています。

外観は白を基調にしていて、今までよりもガラス面が多いので開放的です。


紅葉坂通りに面したNew「神奈川県立図書館」本館


一見して図書館とわかる建物ではありませんが、「神奈川県立図書館」と彫られた立派な石柱が道路に面して立っているのですぐ分かります。

入口を入ると建物内は、外観から想像する以上に広く、椅子や机が余裕を持って配置されていて、落ち着いた空間になっています。

一階には今流行りの喫茶スペースもありますが、某**Coffee(注2)ではありません。
ちなみに、一杯注文してみましたが、コーヒーは注文するとその場で淹れてくれる方式のようで多少時間がかかります。

味の方はマアマアといったところでした。


際立つ運営面での改善点

これについてはかなりの改善点があったように私は感じました。

真っ先に感じたのは、作業スペース(机など)が広くなったことです。
この点に関しては、筆者の別ブログ「JD Library 憧れの図書館とは」でも訴えてきたことですが、一般的に日本の図書館は、書籍の充実を第一主義に考えてきたためか、学習スペースが疎かにされてきた印象を強く持っていました。

アンケート等での要望だったのか経緯は分かりませんが、机が大きくなり、隣との距離も確保されているので圧迫感がありません。それが複数エリアに配置されているので、ある程度混み合っても空席を探す苦労は今のところなさそうです。
この点は映画や雑誌等で見かける欧米の図書館との決定的な相違だと感じていたので、実現に至って非常に嬉しく思います。

筆者の自宅の狭いデスクでの学習に比べ、余裕あるスペースで静かに作業できるので能率アップも期待できそうです。


次に評価できるのが、マイバックやパソコンの持ち込みが自由になったことです。
従来は、マイバックはロッカーへ、パソコンはその都度受付で申告していたと思いますが、
その手間が省けました。
これに関しては、わたしたち利用者側の性善説に期待した図書館側の施策と思われますので、この点は、わたしたちは不正や心無い行為がないよう注意し、ルールを遵守して行かなければと思います。


ChenによるPixabayからの画像


ただ、劣化した面もあります。

これは、前述の現在改装中の「前川國男館」や「収蔵館」が本格運用されれば改善されることかも知れませんが、視聴覚資料(音楽CD、レコード等)については、一般書籍のように現物が棚などに陳列されていないため、所蔵資料データーベースにアクセスしコンテンツを検索確認し予約しなければなりません。

館内の受付で直接貸し出し依頼した場合などは、係員に収蔵庫まで取りに行ってもらわなければなりません。
これは時間と労力の無駄遣いです。
係員、利用者の両方にとってもストレスかと思います。

このことは大きな問題というか弊害です。
できるだけ早い改善を切に願いたいところです。

また、上述の問題に関連して、次のような事柄にも影響があることも併せて指摘しておきたいと思います。


検索はみなに優しいとは言えない

「ググる」なんて新語が一般化し、パソコンによる検索という操作が、今や誰でもできて当たり前の時代の中で、わたしたちは生活しています。
そして、ほとんどの図書館やブックストアーでも書籍の検索(システム)機が設置されています。広い館内、店内を探し廻らなくても、端末の画面から目的の書物を探し、確認し、予約などができる訳です。
大変便利なことだと思います。

しかしながら、わたしたちが図書館やブックストアーに脚を運ぶのは、欲しい本が既に決まっているときだけでしょうか。
決してそんなことはないと思います。「なにか面白そうな本はないかナ?」とか、まったく当てもなく出かけるときもあるでしょう。
そんなときは、検索(システム)機に頼るのではなくて、最も原始的な方法である本棚を順に見て行くのです。図書館においては特にその方法が一番だと思います。
利用者にとって、現物が目の前にあることが何よりありがたく分かりやすい訳ですから。


さらに資料検索においては、二つのケースが考えられます。

一つ目は「世の中には存在するが、当該データーベースにはあるかどうかを調べる検索」と、二つ目は「検索キーワードに近い資料はどんなものがあるのかを調べる曖昧検索」です。
一つ目の検索結果は「ある無し」であり、二つ目は複数の検索結果が想定されます。

何れにしても必要なのは、探し物に対する一定程度の事前知識(そのコンテンツの存在を前もって知っているという)を持っていることです。
しかしながら、現状、視聴覚資料については収納庫に収められていて、私たちの面前にない訳ですから、来館者はPC画面上の資料一覧表(イメージ画像なし)を眺めても、目的のものかどうかの実感は薄いと思います。
やはり、目の前の本棚、ラックなどに現物の本やCDが並んでいる方が、探しやすいし意外な発見ができるかもしれない訳です。

図書館を訪れる利用者の目的は人それぞれです。特定の書籍を探す人もいれば、漠然とした目的で訪れる人もいるでしょう。

新刊や比較的新しい書籍ではなく、過去に出版されていて極めて珍しい本との思いがけない出会いなどあれば、図書館の存在価値はますます上がると思います。
ブックストアーでは味わえない、こうした偶然の出会いを期待して図書館を訪れる人もいるのです。


Gerd AltmannによるPixabayからの画像


仮に検索システムから、目的物を探せたとしても、現状の配置方法では思いがけないものを発見という図書館ならではの醍醐味(魅力)は実感できないと思います。

現状のデーターベースの検索結果画面には、書籍の表紙やCD、レコードのジャケット画像もありませんから至って無味乾燥です。

この点に関しては早期の改善を期待したいところです。


図書館の役割と神奈川県立図書館に期待すること

厳しい指摘もあったかと思いますが、全体を通しては絶賛とまではいかないまでも、何度も脚を運びたくなるような好印象をもちました。
前述の拙者のブログ「JD Library 憧れの図書館とは」でも、行列ができるような図書館には行きたくない旨の意見を申し上げてきました。一時の流行に左右されることなく、地味でありながら必要不可欠であって持続性ある存在であってほしいと思います。


PexelsによるPixabayからの画像


図書館の存在意義を考えたとき、宣伝までして来客集めをするようなことは必要ないと思ってきました。そう考えると、今回このブログで新しくなった「神奈川県立図書館」を取り上げることには、自身の中で葛藤もあり幾分ためらいはありました。
例えば、お気に入りの場所やお店などを、人に教えたくない的な心境と被るところもありました。

しかしながら、公共機関や法人関連の建物では、そこで何をしているのか一般人には分からない施設が多々あります。このことは行政にとっても、わたしたち住民にとっても放置すべき問題ではないと思います。
行政による情宣活動と住民の関心(好奇心)を高めることで、こうしたマイナー施設を有効利用できるようにしていかなければなりません。
私自身の興味のあることと、身近なところからということで、神奈川県の貴重な図書館施設を一部の人たちの専有にしてはいけないと思い投稿しました。

とは言うものの、マイブログの訪問者数では体勢を動かすようなことはないでしょうが・・・(笑)。


現在、新生「神奈川県立図書館」は新築された本館以外は、全館がスタートした訳ではありませんが、新本館をみる限り建物の概要、運営上のポリシーには期待できそうです。
これまでの「図書館の問題点を洗い出し、検討し、改善し」の一連の痕跡を見たような気がしました。
現在改装中の「前川國男館」や「収蔵館」がこの先、どのような形で私たちに一般公開されるのかが、今から楽しみです。

JDA 2023.03.22

2023年2月17日金曜日

気まぐれ天気 vs. 天気予報

気まぐれ天気 vs. 天気予報

最近の天気は気まぐれです

この記事を書き始めたのが、2月14日。

そうバレンタインデーの日だったが、今のわたしはバレンタインデーとは無縁で、そんな生活が十数年続いている。

今年も例外ではなく、恐らくその記録はこの先も延び続けるだろう(笑)。


さて、これからお話しするのはそんなわたしの哀れなバレンタインデーの思い出話ではない。


今回のテーマは最近気になる気まぐれな天気と天気予報についてだ。
わたしなりに考えたことをまとめておきたいと思ったからだ。




さて、仕事を離れてからは以前ほど気にしなくなった天気予報。

とは言え、天気はその日1日を左右する最も重要な要素だと思っている。

そこでこのところ気になるのが昨今の新聞やテレビによる天気予報の予報精度だ。


快晴の予報だったのが曇りだったり、その逆もありと外れることが多いように感じる。

ここ数日はハズレが続き、バレンタインの14日は、予報では私が住む横浜は朝から太陽マークの快晴のはずだったが、実際はどんより雲が空一面張り詰め、結果的には1日中晴れ間はなかった。


「最近の気象庁は怠慢だ!」なんてストレートに言いたいところだが、

正直なところ同情の気持ちも持っている。

この件について、ハズレ予報が多いことも問題だが、それ以上に関心なのが「何故ハズレるのか?」だ。

現在、天気予報を支える技術環境は以前にくらべ格段に進歩しているのに、その精度は一向に上がらない。

まずは「その原因は何故か?」をわたしなりに考えてみた。


素朴な天気予報

わたしのように昭和に生まれた人間は、お爺さんお婆さんあるいは両親など年配者から、

「西の空が夕焼けなら、明日は晴れ」とか「薄暗かったら、明日は曇りか雨」なんて

長年の経験と感に頼る大雑把な予想を日頃聞かされていた覚えがあるが、今思うとこれが意外に当たっていたように記憶する。

いつの時代から言い継がれてきたことなのかはわからないが、先人達の言い伝えもなかなか侮れないと思う。




ところで、わたしは昔からヘソ曲がりなところがあって、この天気予報の問題も次のように穿った考え方をしてしまう。

それは、気象衛星、スーパーコンピューターなど最新のテクノロジーを駆使しても、自然(気象)の激変ぶりには最新テクノロジーも着いていけないのが現実かと。
端的に言って、その変り型にはパターンがないからだ。


近年叫ばれている地球温暖化の影響で、自然現象は大きく変わった。
それは動かし難い既成事実だ。(世界には頑なに認めない人たちもいるようだが・・・)

その変化によって、以前の日本ではあまり見られなかった線状降水帯やゲリラ豪雨などの新たな現象がわたしたちの目の前でも起こり、甚大な被害をもたらしている。

さらにその現象は局地的に発生するため予想がしづらいのが特徴だ。
膨大な過去のデータを読み込ませたスーパーコンピューターは結果の分析には役立っても、
こうした予測の分野ではまだまだ未熟なのだろう。


厄介な「想定外」という言葉

こうした状況から思い出されるのが「想定外」という言葉だ。

ワンパターンが大好きなコンピューターにとっては、この「想定外」が一番苦手分野。


世界を見渡しても、ある地域では過去にない気温の上昇や干ばつ、別の地域では長時間にわたる豪雨により河川の氾濫や洪水など、さまざまな地域で両極端なことが起きている。
それをわたしたちは「想定外」という言葉で都合よく切り抜けているが、それは単にことを先延ばしにしているに過ぎない。何の解決にもなっていないのだ。

もはや、こうした現象が、いつ、どこで、どの程度の規模で起こるかを的確に予測することは、極めて難しいことはわたしたち素人でも容易にわかる。
そして、幸いなことに、こうした警報に関する技術的レベルは現在でも一定程度まで達しているので、その精度を高めるよりも、起こり得る被害をいかに小さくできるかの研究開発や避難ルート、避難場所の確保などに重点をおき工夫した方が建設的かつ現実的だと考えてしまう。(残念ではあるが・・・)



わたしたち人間は「バベルの塔」の神話ではないが、歴史的にみて自らの能力を過信し弄んできたように思う。特に近代においては。

だからと言って、いまさら「そのツケをわたしたちは今払わされている」なんて寓話的で説教めいたことは言うつもりはないが、人間が自然を壊してきたことはどう抗っても明らかなこと。
大いに反省し、壊した自然をできるだけ元の自然に戻せるように努めることが、
今を生きるわたしたち人類が行うべき最優先課題だと思う。

今やるべきことは人と人との争い(奪い合い)ではない。


話は多少本筋から逸れてしまったが、このままだと天気予報はハイテクを備え理論武装だけ整えた単なる分析器だ。

仮に、気象関係のお偉い方々が予報の精度を今以上に上げようと考えているのなら、わたしは現状の精度で十分だと言いたい。多少のズレはあったとしても、そのミスを受け入れる寛容さは持っているつもりだ。わたしたちの天気予報の利用の仕方、期待度を修正すれば済むことだから。
現在のように天気図や週刊天気図などを凝った画像にしたり、頻繁にそれを変更したりと無駄なことが多いように見受けられる。
視聴者が期待しているのは上記のようなことではない。

しかしながら、天気予報の番組に趣向を凝らしたり、予測精度向上のために多額の費用をこの先も費やす意向ならば、むしろその莫大なお金は別のところへ回すべきだと思う。

「一体いまの天気予報はどこを目指しているのか?」そして「気まぐれ天気にどこまで付き合っていくのか?」それがはっきり見えてこない。

今一度、わたしたちは天気予報のあり方を考えるべきだと思う。

最後までお読みいただきありがとうございました。

JDA 2023.02.16


2023年2月2日木曜日

犯人は君だったのか?

犯人は君だったのか?

Alfonso CerezoによるPixabayからの画像

何年か前から、わが家の狭い裏庭にセンリョウが植えてある。

家内が言うには、はじめは細い枝で赤い実のセンリョウを植えたのだが、

いつしか黄色の実もでるようになったそうだ。


根が共通なのか、それとも根は別々でそれぞれ独立しているのかは定かでないが、実に不思議なことでわが家の七不思議のひとつになっている(チョッとオーバーか?)。

突然変異か、あるいは食物連鎖の一環によるものなのか、皆目分からないが実に興味深い。


だが、今回の話題はそのことではない。
とは言っても、主役はそのセンリョウなのだが・・・


あいむ 望月によるPixabayからの画像


その訳ありのセンリョウ、昨年の今頃だったと思うが、たくさん実をつけたなと思っていたところ、ある日突然、その実のほとんどが消えてしまったのだ。

更に不思議なことに消えたのは赤の実のみで、黄色の方はなぜか残っていた。


まず頭に浮かんだのは「黄色の実がなぜ残ったのか」の疑問よりも、「果たして誰が?」の方だった。

野良猫がわが家の狭い庭を横切っていくことはよくあるが、果たして猫は木の実を食べるだろうか?恐らく、特別な事情がない限り、食べないだろう。

そうしてみると、最有力なのが鳥だ。
中でもこの付近でよく見かけるのが、今や都会の悪役になってしまったカラスである。


確かに付近のゴミ置き場を漁っている光景はよく見かける。わが家の屋根やベランダの手すりを悠々と歩く姿を何度も見たことがある。更にかれらは鳥類でも雑食種だからなんでも食べる。


よって、わたしの家ではそのときの結論はカラスが犯人だった。

まさに、今年のあの光景を見るまでは・・・


PexelsによるPixabayからの画像


思いがけないところから犯人判明!

今年もまたわが家の庭にセンリョウの実がなった。

月日の経つのはいつものことながら早いものだ。
年を重ねると尚のこと、ため息と共にしみじみと実感すること然りである。

さて、そんな悠長なことお思っていた矢先、例のカラスが犯人の事件(?)を覆す光景が我が目の前で展開されたのだ。

正直なところ、この時はすっかり去年の一件は忘れていたのだが、台所からガラス戸越しに見た光景は、あの時の記憶を一瞬にして蘇らすものだった。

それがイメージ1、2である。


<イメージ 1>


<イメージ 2>


時まさに2023年1月23日午後の出来事。

さらに、決定的な証拠が以下の動画 1である。


<動画 1>


犯人は何と普段よく鳴き声を耳にするヤマバト(orキジバト)だったのだ。

早速、現行犯逮捕といきたいところだったが、ヤマバトの何とも無垢で健気なその姿に
その時は脱帽だった。

いま人間の世界ではコロナの影響で不便を強いられることが多いが、動物も生きるために必死なんだと感じた。

よって、この場は無罪放免とすることに。
また、昨年まで窃盗容疑がかかっていたカラスについてもお詫びをしなければと。
画像で見ての通り、細い枝に器用に乗っかる芸当は、到底カラスには真似できないだろう。


新聞やテレビのニュース等ではウクライナの問題や前述のコロナの問題、そしてわたしたちの暮らす身近な社会でもオレオレ詐欺、強盗そして殺人事件など不穏なニュースばかりが目を引く。

そんな暗いニュースばかりが報道されるなか、この時ばかりはゆったりとした心癒される瞬間を過ごすことができた。

追い払うどころか、感謝の意を添えたい気分だった。
「食べられるだけ、思う存分食べていきなさい」と心の中で呟きながら、彼らが自ら飛び立ってゆくまでずっと見惚れていた。


ちなみに、今この時点(2月1日)のセンリョウの状況は次のイメージ3のようになっている。


<イメージ 3>



去年ほど丸坊主にはなっていないがご覧の通りである。

そして、例によって黄色の実は何故か安泰である。



*追記*

一部の画像に写り込みが入り、醜い部分があることをお詫びします。
被写体が警戒心の強い鳥類のため、ガラス越しに撮影したためです。