2017年6月5日月曜日

ブーゲンビリアには二度騙された!



昨年のちょうど今頃だったと思うが、戸塚の小さなフラワーショップでブーゲンビリアの鉢植えを買った。
そのブーゲンビリアがなんとこの冬を乗りこえ、最近めでたく鮮やかなピンクの花を咲かせたのだった。

2017年5月30日撮影

わが日本の冬の厳しさをみごと越冬したのだ。
わが奥さんは「わたしの愛情こもった手入れのお陰」とドヤ顔だったが、素直に認めたくはなかったがチョッピリ感心、感激した。

ブーゲンビリアといえば懐かしい思い出がある。
はるか昔、新婚旅行でハワイを旅行した時のことだ。
当時、ハワイの右も左も分からなかった私たちは、最近ではほとんど見られなくなったホノルルの市内観光ツアーに参加した。
というか、新婚ツアーに付いていたものだっのだが、そのときのバスの運転手(女性)さんが、訪れる先々で道路沿いに咲くブーゲンビリアの花を紹介していた。
その発音が「ブーーゲン、ビリア」と極端な抑揚で、それはそれはしつこいくらい繰り返してくれたので、いつしか口癖になり無意識に「ブーーゲン、ビリア」と口ずさんでいる自分に気が付くほどだった。
斯くして、それまでハイビスカスくらいしか無かった私の熱帯植物の知識は、倍増したのだった。

そんな思い出深い「ブーゲンビリア」だったが、わが家のブーゲンビリアをジックリと観察していると、ピンクの部分はどうも花弁というよりは、ある種の木々が紅葉するように、ブーゲンビリアの葉がピンク化したのではないかと思えてきたのだ。
だからブーゲンビリアという植物は特殊で、花が咲かないんだと勝手に思い込んでしまった。

2017年5月30日撮影


ところが、後で分かったのだが、私たちがふつう花びらと思っている濃いピンクの部分(白、紫、黄などもあるようだが)は、実は花ではなく苞(包葉)ということが分かった。
わたしの考えは間違ってはいなかったのだ。
そして、花はそれからしばらくして苞の中に2から3の小さな花を付けることも分かった。
今回、冬越えを喜んだわが家のブーゲンビリアの鮮やかピンクも、やはり花ではなく葉だったのだ。
その意味では、わたしの観察力も満更ではないと自負。


オオインコアナナスのときもそうだったけど、それまで正しいことと信じていたことが、
実は思い違いだったということは、多々あるんだとこのとき思った。
日常生活には何の支障もきたさないことだけど、注意しないといけないとチョッと反省。

以前咲いていたわが家のオオインコアナナス
鮮やかな真紅の部分は花ではない



花苞から黄色の花が出ている


それから数日が過ぎ、新たな感動があった。
わが家のブーゲンビリアにも小さな白い花が咲いたのだった。
遠目では気が付かないことが、こうして身近で見ていると新たな発見に繋がるのは貴重なことで実に楽しい。

ブーゲンビリアの花2017年6月2日撮影


そんなことから更に詳しく調べてみると、このブーゲンビリアはオシロイバナ科に属する熱帯植物で原産地は中南米ということも分かった。
熱帯性とは言え、案外育てやすいらしい。
育て方でもっとも注意することと言ったら、肥料のやり過ぎと水のやり過ぎなど。
やり過ぎると枝ばかりが成長して、花が咲かなくなってしまうらしい。
耐寒性に弱いから、それさえ気を付ければ、要するにブーゲンビリアという植物は手がかからないのだ。

それではあの奥さんのドヤ顔はいったい何だったのか?
美しいブーゲンビリアに騙されたのは兎も角として、美しくない(?)奥さんに騙されたのは散々であった(笑)。

2017年4月17日月曜日

いつも通りが実は・・・


今年もいつもの場所に、いつものように桜が咲きました。
多少の時期のズレはあるものの、毎年決まってこの季節に咲くのだから、自然は大したものだと感心してしまいます。
人間が管理していたら、ついウッカリなんてことがあって、咲かない年が恐らくあるのでしょう。
そう考えると、実にありがたいことです。

2017年4月13日撮影

今年はというと、当初の開花予想よりは遅れたものの、
各地で美しい花を咲かせ、わたしたちの目を楽しませてくれました。
何気ないことだけれど、こうした季節の繰り返しは私たちが生きて行くうえで極めて大切なことだということを、わたしたちは兎角忘れがちです。
単純な繰り返しの毎日は一見退屈で苦痛に思えますが、実はそこにこそ私たちは安らぎを覚え安心を感じているのです。

しかしながら、残念なことに人間はこうした「いつも通りのことをできること」を当たり前のことと捉えて軽視しがちです。自分の生活がいつもの軌道から外れて違和感や不自由を感じたとき、はじめてその重要性、有難さに気付くのです。
ルーチンといういつもながらの行動パターンが如何に尊いかを知らされる瞬間です。


以前よく耳にしたことわざに「隣の芝生は青い」というのがあります。
最近はあまり使われないのでしょうか?
この言葉はこうした人間の心理を実に上手く現わしていると感心します。
他人のことが気になり、その上現状に飽き足らず常に新しいものを求めるという心理。

ある意味、人間の歴史はこうした欲望や嫉妬の歴史と言えなくもありません。
一方で、こうした欲望や嫉妬があってこそ人類の発展があったという考え方もあります。

新しさや変化を求め挑戦することは人間の営みの中で必要不可欠の行動です。
古臭い考えかも知れませんが、特に若い世代にとっては、こうした情熱は彼らの特権でもあるはずです。時には、隣の芝生が青く見えることも必要なのです。
ただ、わたしがここで言いたいのは、その歩みをチョッと止めて人生や自分自身のことを見つめ直すゆとりが欲しいということです。


アルベール・カミュの作品に「シーシュポスの神話」という人生の不条理を題材にした短編があります。シーシュポスは神を欺いたために、その怒りをかい大きな岩を山頂まで運ぶという罰をあたえられます。やっとの思いで運び上げた大岩は、頂上に達した瞬間自らの重みでまた麓まで転げ落ちてしまうのです。
シーシュポスはそれを何度も繰り返しますが結果はいつも同じです。


シーシュポスの神話
カミュ著 清水 徹 訳 新潮文庫

過酷さと徒労の象徴として、この「シーシュポスの神話」はよく例に挙げられます。
しかしながら、わたしがこの物語で注目したいのは、チョッと違います。
一度、頂上まで運んだ岩が無惨にも麓へ転げ落ちるのを絶望とともに見つめた後、
再び岩を運ぶため麓へ降りて行くまでの下山の道のりがあることに注目するのです。
その間、シーシュポスは何を考えていたのかに関心があります。
この悲惨な物語でわたしがひとつ救われるのは、徒労の連続の中でこうした考える時間(下山のひととき)、言い換えればその余裕の時間がシーシュポスにあったということです。

正直なところ、「努力していればいつかは報われる」といったセンチメンタリズムはこのお話にはありません。
不条理なことなんて、生きていればいくらでもあるのですから。
一番良くないのは、不条理なことに直面したとき、それに押しつぶされてしまうことだと思います。

単純な繰り返しが自分にとって決して徒労ではないことに気づくことが大切なんです。
若い人たちには「気付く」が無理なら、「信じてみる」のはどうでしょう。
タップリ時間はあるのですから。

そして、来年も満開の桜を見ることができたら、一息入れて、生きていて良かった、いつも通りで良かったと自然に感謝すれば良いのです。