2026年4月7日火曜日

「国立**、公立**」が意味すること

「稼ぐ国立博物館へ 財務省意向」の新聞記事から見えること。

私は年に十数枚だが、水彩画を描いている。出来ればもっと描きたいところだが、日常生活のなかで家事手伝いをこなし、こうしたブログ投稿を書いたり、本を読んだり、音楽を聴く時間などを考えると、現状の十数枚が適当なところと考えている。

ただ、達成感,充実感ということで言えば、水彩画を描くひとときは私の自由時間の中で、一番満たされた時間と言えるだろう。とにかく、絵画は出来上がりが一目で確認できるところが判りやすい。


こんな絵が描けたら・・・最高!


テレビや新聞をみると、戦争やテロをはじめ自然災害や殺人傷害、詐欺、汚職事件、ガソリンや食料品などの価格高騰などなど、例を挙げれば切りがないほど、私たちにとって暗い出来事ばかりが目立つ。値上げ値上げでお金だけがドンドン出て行く一方で、ストレスだけが容赦なく溜まるばかりの悪循環である。




そんな時、100%ストレス解消にはならないが、私は水彩画を描くことにしている。目新しいことではないが、そうしている間だけでも嫌なことを忘れられるからだ。ほんの少しでも芸術を嗜むということは、そうした効果をもたらしてくれる訳だ。

だが昨今、学校教育に於いて、美術、音楽、家庭、体育などの科目が軽視されていると聞く。その中でも特に美術、音楽といった分野への風当たりが、ことさら強いようだ。

そうした傾向の現れなのか、先日、次のような見出しの新聞記事を見つけた。

去る3月9日の朝日新聞朝刊の第一面に 「稼ぐ国立博物館へ 財務省意向」と題した記事である。さらに、副題には「収入不足なら『再編』値上げや『二重価格』要求」とあった。

この見出し及び記事内容が意味するところは、平たく言えば「国立の博物館、美術館は採算が合うように入場チケット収入を増やしなさい、出来なければ館の再編や価格値上げ等を検討しなさい」というメッセージと捉えた。

この内容は、文化庁(文部科学相が所管)が国立博物館・美術館(独立行政法人が運営)に対して伝えた「お達し」のようなもので、各法人が5年間の運営方針を策定するための中期目標として示した内容とのこと。




ただし、この目標が未達の場合の対応が、各所轄で異なっている。
例えば、「再編は閉館を想定したものではない」とする文化庁に対して、財務省は閉館や統合もあり得ると言った見解の相違が両者の間にはある。

いずれにしても、既存の芸術関連施設の縮小や入場料の値上げ等、私たち利用者にとって穏やかでない事態が差し迫っていることに変わりはない訳だ。
そもそも、国立の博物館、美術館は展示会開催などで得る自己収入(入場料収入など)と国費によって運営されている。ところが、今後5年の間に常設展、企画展にかかる費用の65%を入場料で賄い、後々は100%国費に頼らない運営を、というのが今回の財務省等の意向のようだ。要するに、「博物館、美術館は独り立ちしなさい」と言うことである。
国立がこうした状況になれば、やがてはその下部の公立も「右に倣え」は充分に考えられることだろう。




この新聞記事を読んで、一番に感じたのは当局の無責任さだ。
それは、チケット代の値上げや、国内在住者とそうでない人の料金に差をつける「二重価格」が導入されれば、現状よりも来館者が減るのは誰が考えても判るはずだ。現実的に増収など不可能なことは明白なのに、それを敢えて提示してくる、そこが無責任だと言うのだ。
チケット代の値上げと「二重価格」導入が与える印象はマイナスでしかない。


私が「衣食住」という熟語を知ったのは、小学生の時だっただろうか。
その優先順位は、漢字の並び通りではなく「食、衣、住」かも知れないが、この3つの要素のいずれが欠けても、私たちは生きて行けない。「衣食住」とは私たちの生活基盤そのものであることを教わったはずだ。

確かに、上記の3要素に入らない芸術という要素は、私たち人間にとっては究極のところ、無くても生きて行けるだろう。しかしながら、歴史を学べば、芸術的要素は常に人間の生活の傍らにあって、生きる喜びや精神的安らぎを人々にもたらしてくれたことは理解できる。
人格形成や豊かな人間性を育むことにも、大いに影響したことだろう。

だが、別の視点で歴史を紐解くと皮肉なことに、戦争や大規模な自然災害といった有事の際には、芸術は真っ先に疎かにされ犠牲となる要素でもあった。




ビジネスの分野でも、最近では絵画や音楽の素養が求められて時代である。書店に行くとマーケティングや企画書などのビジネス書と並んで、美術、音楽の一般教養の必要性を説いたビジネス書籍を見かけることがある。これは単なる専門分野の知識だけではなくて、幅広い芸術的センスも現代のビジネスマンに求められているいう証だ。

アニメ「機動戦士ガンダム」のテーマソングを作曲した三枝成彰氏の著書「知ったかぶり音楽論」に、表現は正確ではないが「外国のアーチストと対等にやり取りするには、音楽の話題ではなく、まず美術など芸術一般の教養が必要」といった主旨のことが書かれていたことを思い出す。つまり、専門知識だけでは、外国人との会話は広く展開していかないということだ。




三枝氏が芸術一般の必要性を指摘した著書「知ったかぶり音楽論」は、実は1993年に出版されたものだ。ここへ来てようやく、三枝氏の考えに世の中が追いついた感があると、私は感じているが、我が国の官僚の皆さんは、旧態依然の考え方(主要五教科の重視)にまだまだ固執しているようだ。

仮に、文化庁や財務省が掲げる目標が達成されたとしたら、恐らく、人気のある博物館、美術館は、パンクするだろうと私は推察する。それでなくても現状は展示物をゆったりと見学できるような優雅な環境にないからだ。人ひとが群がって、一般観覧者は間近で作品を見ることができていない実態を、彼らは分かっているのだろうか。日本の博物館、美術館は芸術作品を鑑賞する環境とは程遠い現状にあることを知っていただきたい。




某テレビドラマの常套句(台詞)ではないが、「事件は現場で起きているんだ」の認識に近いものを感じてしまう。上部に立つ人たちは現場の状況を肌身で感じていない。単なるアンケート調査結果だけを見て、状況を把握したかのような勘違いをしている。土日祭日を含めた開催中に博物館、美術館を、一般人として訪れていただきたいものだ。混雑の実態を体感すれば、今の展覧会場がじっくりと芸術作品を鑑賞する状況にないことが分かるはずだ。上記で述べてきたような財務省、文化庁の不条理な意向は、発想として出てこないと思うのだが・・・

こうした傾向は、今回例として揚げた国立博物館、美術館だけに限られたことではない。実は公立図書館の運営にも及んでいるのだが、その件に関しては別投稿にてお話したいと考えている。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA

2026年3月15日日曜日

いま時のテレビCMについて

ボクが幼少の頃の遊びと言ったら、「メンコ」、「ビー玉」、野山での虫捕り、そして野球などでした。
そんな時代、ボクらの娯楽の王様は断然テレビでした。



そのお陰(?)で、ボクは視力が低下し眼鏡をかける羽目になりました 。テレビ画面近くで見ていたことが原因と、当時親は言っていましたがその真偽は定かではありません。途中、コンタクトにしたことも、でも眼鏡は今なお必需品で、その煩わしさに日々耐えている毎日です。

さて、そんなテレビですが、最近ではニュースや天気予報など、極々わずかな番組をのぞき見ることはなくなりました。

その理由としてはいくつかあります。例えば時間的な理由が割合としては大きいですが、番組コンテンツの低俗化を感じることもその一つです。前者の時間的な問題は、自分自身の工夫で解決できることですが、後者の番組の低俗化の方は、ボクにはどうすることもできません。
ですから、この先もテレビを見る時間は、増えることはないでしょう。


上記「時間的な問題」以外で視聴しなくなった理由

  1. 「食レポ」が多すぎる
  2.  番組とコマーシャルがタイアップ(一体化)したような番組コンテンツが目立つ
  3.  全般的にCMの数量が多い
  4. 各テレビ局の独自性が感じられない
  5. その他 


お分かりの通り、CMに関連することが多いですが、誤解のないように申し上げれば、ボクは決してテレビにおけるCMの存在を全面否定している訳ではありません。

テレビ放送局が番組スポンサーからのコマーシャル料によって、大部分が成り立っていることを考えれば、CMの存在を否定はできません。更に、ボクたち視聴者もCMによって、世の中に埋もれている優れた製品や価値ある情報を知り得る訳で、CMが必要不可欠な存在であることは十分理解しています。
その昔、某お菓子メーカーの方が、「どんなヒット商品のお菓子でも、宣伝をしないと数か月で売り上げは激減し忘れ去られてしまう」という主旨のお話をしているのを聞いたことがあります。それ程に、お菓子業界の競争が熾烈なことと、宣伝の重要性をその時改めて知らされたのでした。



要は、CMの量ではなく、CMを流すタイミングではないかと考えます。CMの質と内容は優れているに越したことはありませんが、頻繁に流されたら嫌気がさします。費用対効果(コストパフォーマンス)を考えれば、CMの質と内容を向上させるより、CMを流すタイミングの方を工夫した方が効率が良いように感じます。

正直なところ、最近の放送はCM数(量)が多過ぎると思います。例えば、ボクが視聴している数少ない番組の中の某番組では、30分の番組でありながら途中30秒程度のCMが6~7本流されます。その他に、番組の前後でも2本程度流されているのです。幸いその番組はドラマ系ではないので支障はないのですが、仮にドラマや映画だったらストーリーが中断されてしまいます。こうなると、折角のCMが反感を買うことになります。

ボクはそれほど心が広くないので、いまの放送のやり方ではドラマや映画を観ることは、苦痛以外のなにものでもない訳です。そんな経緯から、テレビを見る時間は極めて少なくなっていったのです。

それと同時に、CMの在り方に対して、ボクはある疑問を抱くようになったのです。ですが、その話の前に、テレビ草創期のCMがどうだったかについて、簡単に触れておきたいと思います。

  ◇     初期のテレビCMはノドカだった

 かつて、テレビのCMは番組の本編と本編との間に一つだけ挿入されていたように記憶していますが、なにしろ当時はボクも幼かったので、その真偽は保証できないことを、先にお断りしておきます。
さて、モノの本によれば民放放送がスタートしたのが1953年で、その時に日本初のテレビCMも放送されたとのこと。ちなみに、そのテレビ局は日本テレビで、スポンサーは精工舎(現SEIKO)となっていますが、これには諸説あるようなので、ここでは触れません。

ある程度の年配者であれば、その頃のことを覚えているかも知れませんが、70年以上も前のことでです。若い方は当然、リアルタイムにその当時を知らないので、知っていたとしても知識としてでしょう。筆者のテレビに関する記憶は、テレビが一般家庭に普及してからなので、1953年よりだいぶ後の記憶になります。


そう!あの頃は一時間番組でCMが流れるのは、多くて4本程度でした。
更に、今では信じられないでしょうが、1番組1スポンサーというのが原則でした。
それは、当時の大きな企業なら、1時間番組ぐらい一社で提供できる余裕があったからでしょう。あるいは、1時間番組のコストが今に較べて低価格だったのかも知れません。当時と現在では社会情勢も大きく異なっているので、そんなこともできたのでしょう。
自身の記憶では、「東芝 日曜劇場」「ポーラ テレビ小説 」「花王 愛の劇場」などの企業名を冠した番組が、一社提供というケースが多かったように思います。否、一社提供だから許されるステータスシンボルだったのでしょう。

また、「世界ふしぎ発見(日立)」「題名のない音楽会(出光興産)」「ミュージックフェア(シオノギ製薬)」などが、かなり長期にわたって一社提供を続けていたようですが、現在は「題名のない音楽会」のみが創業者の理念に基づき、一社提供を貫いているとのこと。(注1)

最近では、ご存知の「サザエさん」が東芝の一社提供でしたが、何年か前に複数社の提供に変わっています。

概ね、1960年代は一社提供が原則だったようですが、1970年代辺りからその傾向が崩れ、バブル期を境にほとんどの番組が、複数社提供に移行していったようです。

ただ調べて行くと、こうしたコマーシャル業界の複数スポンサーの流れは、前述したような単なるコスト面だけではなくて、一社提供による弊害(一例として、一社独占による民主的な番組運営の難しさ、番組構成上のリスクなど)を回避する目的もあったようです。この辺りの複雑な事情はボクたち業界外の人間には想像できないところです。


◇初期のテレビCMは分かりやす

次に、コマーシャル自体の内容ですが、当時はお菓子、食料品、清涼飲料水、医薬品、文房具、電化製品、自動車などのCMが多かったのを思い出します。筆者の一番の思い出は、丸美屋食品の「ふりかけ」のCMで、これには8マンのシールがおまけに付いていました。

現在でも業種的には共通しますが、趣味や贅沢品などは今よりもずっと少なかったのです。1960年代のCMでは製品名を連呼したり、商品の有利性を全面的に強調するなど、現代の凝った作りのCMに較べると、ある意味、単純で稚拙で素朴なコマーシャルが多かったように記憶します。

以上がテレビ草創期のCMの大まかな特徴だと思っています。


最近の洒落たCMに較べると、総じて単純でストレートなCM作品が多かったという印象です。
ただ、それも「アリ」かと思います。
何故なら、現代のテレビCMを冷静に見ていただければ納得できると思います。

広告制作会社に高額な金額を払い、依頼して出来上がったCMは、確かに素晴らしい作品なのでしょう。出演者もメジャー、画像もきれい、笑いもありオチもある。CMの構成としては完ぺきに近いのでしょうが、そのCMがテレビで流されたとき、ボクは個人的には何か物足りなさを感じ、スッキリしないのです。
見終わった後、冷静に振り返ってみてください。
「何かが足りない。」「何かとは?」そう!「今のCM、何のCMだったっけ?」と気づくはずです。

上記のような経験、みなさんはありませんか?
ボクはこの事例こそが、現代CMに対して一番に抱く違和感であり、テレビに失望した要因と言っても過言ではありません。こうした内容のCMがいくつも連続して、毎日のように流されている訳です。

振り返ってみて、みなさんはCMを何となく見ている傾向はありませんか。ボクもある時まではそうでした。
いまやテレビが家庭にあるのは当たり前。そして日常生活のなかで、無意識にテレビのスイッチを入れ、何となく番組本編とCMとの境界線(一区切り)を感じないままに、テレビを見ているということはありませんか。

それは、チョッと語弊があるかも知れませんが、コンテンツいわゆる番組本編が、視聴者を惹きつけるだけの魅力ある内容になっていないから、と言えないでしょうか。あるいはCM自体がイメージ型CM(注2)と言って、上記事例のような「何のCMか分かりずらい」ことに起因しているのかも知れません。

今の時代、マスメディアと呼ばれている世界では、宣伝の影響力は絶大で無視できない存在であることは間違いありません。しかし、残念なことに現代の宣伝広告、CMの主流はイメージ型CMなのです。



コマーシャルの原点は、企業イメージの定着向上、ブランドの認知度向上、商品やサービスの購買力アップを目的にすることだと考えます。ところが、現在主流になっているイメージ型CMでは、企業イメージ、商品イメージをカッコ良く表現することが優先され、それが結果的に災いして、本来訴えたかったことがオボロゲになっているような印象をボクは持ちます。
なので、ボクはいまのCMは制作者の自己陶酔型、自己満足型と勝手に呼んでいます。

余談ですが、思い起こせばイメージ型CMは、コピーライターという職業が注目された1980年代頃ころから始まったように思います。バブル経済全盛期の企業の余裕が窺える、社会現象と言えるのかも知れません。

また、もう一つの疑問点は、「CM出演タレントさんだけが目立って、肝心の宣伝物が陰に隠れてしまっているではないか」ということで、ボクの中にある理解できない点です。
本業よりもCM出演のお陰でメジャーになったタレントさんは、名前は控えますが過去に沢山いたように思います。ひねくれた考え方かもしれませんが、CM出演オファーは、タレントさんにとって、まさしく一挙両得と言えるのではないでしょうか。CM出演料が入り、尚且つ自分自身の宣伝にもつながる訳ですから。


思えば、成果に見合わないイメージ型CMを作り、出演タレントに高いギャラを払い、タレントだけがアップグレードしているという実態を、果たして企業はどう見てるのしょうか。

企業にしてみたら、言葉は悪いですが「踏んだり蹴ったり」「本末転倒」だと思いませんか。
バブル期ならまだしも、不景気で値上げ値上げと騒いでいるご時世で、宣伝主の団体、企業などは何と「お人好し」なのだろうと、単純なボクなどは絶対に思ってしまいます。

不安定な世界情勢、その中で世知辛いわが国の経済状況を考えたとき、ボクは「イメージ型CM」よりも、かつてのCMの原点である「商品名の連呼」や「商品の有利性アピール」といったコマーシャルの基本に戻ることの方が、コストパフォーマンスは良いのではと考えています。



最後にもう一つ。
またまた、古い話で恐縮ですが、テレビ創成期のCMでは、有名タレントさんではなくて、CM専門のタレントさんがいました。その方たちは当然に、有名タレントよりもずっと低いギャラでCM出演していた訳ですから、企業の負担も低く抑えられていたはずです。
そんなことも一考かと。

ちなみに、ボクはへそ曲りなので、例えば有名タレント(ご贔屓を問わず)が自動車の宣伝をしていたとしても、それを機にその車を買おうとは決して思いません。イメージもオーバーラップすることはありません。
このようにボク自身は絶対にありませんが、こうしたCMでの成約率が、どの程度あるのかという統計数字には興味があるところです。


最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA

2026年2月6日金曜日

ガビチョウという鳥を知ってますか?

 ガビチョウ(画眉鳥)という鳥をご存知ですか?
体調20cmほどのスズメ科の野鳥で、私の住む横浜で2、3年前ぐらいからその鳴き声を聞くようになりました。

今年も2月の頭ごろに第一声を聞きましたが、去年よりは少しばかり早いお出ましのように思います。その鳴き声、鳴き方に特徴があって、名前の響き同様にかなり喧しい鳥です。

私の周辺で聞くガビチョウの鳴き声は、4種類ぐらいの鳥の鳴き方をランダムに繰り返しているように感じられ、率直に言ってウルサイです。本来、野鳥の鳴き声を聞くと私たちは癒されるのが常ですが、ガビチョウの鳴き声はお世辞にも、気が休まると言えない鳴き方です。



2025年5月9日撮影
自宅の雑木林にやってきたガビチョウ 

調べてみると、やはり私の第一印象通り「迷惑鳥」、いわゆる害鳥(特定外来生物)に属するようです。前述した騒音問題や在来種への影響、生態系の観点などから害鳥に指定されたようです。

本来は中国南部からアジア地域に生息していたようですが、70年代に人間のエゴ行為、要するに鳥類のペットブームで日本に輸入され、その後、南方から広範囲に生息域を拡大していったそうです。縄張り意識が非常に強く、その鳴き声は縄張りアピールそのもののように感じます。

3月ごろにはウグイスの登場で、活動時期が重なりますが、両者が同時に鳴いているのを聞いたことがありませんから、恐らく縄張り意識、ライバル意識が強いのは確実だと思います。

とは言うものの、そんなガビチョウでも夏が終わり秋になるころには、鳴き声を聞けなくなります。昨年もそうでしたから。

そんな時は、不思議なものでチョッピリ淋しい心持になるのは、そんな喧しい鳥でも情が沸くのでしょうか。


春はもうすぐ


ですから、これからの季節ガビチョウの鳴き声も迷惑がらず、今年は大いに楽しみたいと思っています。この寒さが峠を越えれば、ウグイスの鳴き声も楽しめ、胸ワクワクの季節がやってきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA