2026年7月27日月曜日

今更ですが『The Long and Winding Road』 〜音楽に於ける原曲とアレンジの問題を考える〜


hjrivasによるPixabayからの画像


はじめに

ボクはこれまでのブログのなかで、小学生の頃から、クラシック音楽が好きなことを述べてきた。クラシック音楽はご存知のように、ポップスやロックなど他のジャンルの曲に比べ、一曲が長いことが特徴の一つになっている。この「曲が長い」という特質がクラシック音楽には災いして、現代の多くの人から敬遠される最大の要因と考えられてきた。その証拠に、クラシック音楽で一般的に親しまれている曲と言ったら、短い曲が多いハズだ。と言うか、本来は長い曲の一部を抜粋し編曲したものが、人々に愛されていると言った方が、正確かも知れない。

例えば、バッハの『G線上のアリア』は、『管弦楽組曲第3番ニ長調 BWV1068』という組曲のなかの第2曲が、独立した形で演奏されることが多く、世界中の人たちに愛されている訳だ。
演奏時間は5分程度で、一般の人にも受け入れやすくなっている。

ボクの場合、曲が長いことは苦にならない。むしろ短い曲に、物足りなさを感じるくらいだ。この「曲の長さ」に関して、ボクが昔から残念に感じていることある。先ず、そこからお話しすることにしよう。


名曲『The Long and Winding Road(長く曲がりくねった道)』への不満


(Image created with Adobe Firefly)


それはビートルズの名曲『The Long and Winding Road(長く曲がりくねった道)』に関してだ。ご存知、この曲は、1970年リリースのアルバム「Let It Be」の中の10曲目である。歴史に残る名曲であることは確かだが、ボクが個人的に残念に感じていることは、次に挙げるズバリ二つだ。


その一つ目が、『The Long and Winding Road』は、その曲調から考えて、アルバムの最終曲にセッチングされるのが、一番相応しいということ。1970年リリースのアルバムでは12曲中10番目にセッティングされている。

そして、二つ目が『The Long and Winding Road』の曲の長さの問題だ。要は、曲が短すぎることだ。曲名に「Long」の単語があるからと言った単純な話ではない。
この曲は3分39秒という、ビートルズのナンバーとしては、比較的長い方である。しかし、この3分39秒の長さでは、この曲のスケール感は表現できないと、ボクは常々感じてきた。

以上二つが、『The Long and Winding Road』に対するボクの不満だ。

次に、ボクの個人的な感想だが、この曲にはドラマ性があると思う。映画のエンディングに使われたら、さぞかしその映画全体を締め括るには相応しい、エンディングになるだろうと感じている。一つ目の不満「アルバムの最終曲が相応しい」とボクが感じるのも、この点と共通した認識からである。




ヘビーなビートルズフリークからしたら、ボクの不満は「邪道の何ものでもない」と、一蹴されそうだが、決して「イチャモン」ではない。ボク自身もビートルズファンの一人として、そして建設的な意見として、敢えて述べさせて頂いた。
ここまではボクの勝手な絵空事として捉えて頂きたい。


だが、ここからは『The Long and Winding Road』の歴史的経過を踏まえて、考えて行きたいと思う。


『The Long and Winding Road』には衝撃的な経緯が

実は、この『The Long and Winding Road』には、ビートルズファンなら誰もが知っているであろう、でも普通にはあまり知られていない、かなり衝撃的な逸話がある。

まず、本筋に入る前に、その逸話について簡単に述べておこう。

『The Long and Winding Road』は本国イギリス、そして米国では、1970年5月にアルバム「「Let It Be」」の収録曲の1曲として、世に登場した。ちなみに日本では1970年9月の発売である。録音は前年の1月に行われているので、発売までに1年4ヶ月ほどの期間が空いていることになる。音楽業界では、こうした空白期間があるのは、珍しいことではないが、この時の1年4ヶ月は、それなりの複雑な経緯があったことを意味している。

この件に関しては、これ以降で触れるが、別ブログでも概要を記しているので、こちらも参照いただきたい。

音楽聴き比べ_004『The Long and Winding Road』


作曲者ポールが思い描いた『The Long and Winding Road』

この曲は、クレジット上ではレノン=マッカートニーとなっているが、実質はポール・マッカートニーの楽曲とされる。
後々のインタビューでポールは、この『The Long and Winding Road』について、次のように語っている。

「・・・自分にはどうしても手の届かないものについて歌った曲だ。決して辿りつけない扉、そして延々と続く道についてのね」

出典:Wikipedia「ザ・ロング・アンド・ワインディング・ロード」

https://ja.wikipedia.org/wiki/    (2026年7月14日) 

と、上記のような、意味深なコメントを残している。 

また、「哀愁のある曲で、こういう曲が好き」とも語っている。一度聴けばポールの曲と分かるし、ポール自身も愛着のある曲として、ビートルズ解散後のソロライブでも、この曲は何度も演奏されている。そんなことからも、彼のこの曲に対する思い入れの強さを推察できる。


Dorothe WoutersによるPixabayからの画像


どちらが好みか?

ところで、ビートルズの解散は、一般には1970年4月とされているが、それより数年前、彼らの精神的支柱であったマネージャーのブライアン・エプスタインの急死以降、グループの不和が目立ち始めたことは、一般的にもかなり知られている事実だ。

名曲『The Long and Winding Road』は、そうした4人のゴタゴタの状況下で、グループ解散の最終的な決定的要因になってしまう。ただ、これは結果論的に考えられることで、ビートルズの解散理由は幾つも囁かれている訳で、真実は彼ら4人にしか分からないのだろう。或いは4人にも分からないのかも知れない。

さて、その決定的要因とされる事件とは、プロデューサーのフィル・スペクターによる、この曲への大幅な手直しだった。しかも、その手直しは突然のことで、尚且つポールに無断で行われたのだ。具体的にはバックにオーケストラと女声合唱のトラックを加えたことだった。ポールは、この曲はピアノを主としたシンプルなバラードにしたかったようで、実際にその意向に沿ったテープは出来上がっていた。そこに上記のトラックが追加された訳だ。この件に関し、ポールは非常に憤慨していたという。

私たちが一般的に聴いているのは、フィル・スペクターによるオーケストラと女声合唱が加えられたバージョンである。このアレンジについては、「派手な」「豪華な」「聞くに耐えない」「心地よい」などの賛否両論が、入り乱れたようだ。

こうした当時の評価は、ボク個人としては、当事者たちを無視した、無責任で度が過ぎるものと思っている。音楽史、絵画史を多少なりとも知ると、いつの時代の評論家の批評も、無責任で的外れなものが多いことが分かる。批評は飽くまでも他人の意見、自分自身の耳で実際に確認することが肝要だと思う。

Image by Gerd Altmann from Pixabay


この後触れるが、ポールの意向で「Let It Be...Naked」というアルバムが、2003年にリリースされていて、このアルバムでは、オーケストラ等なしのシンプルな『The Long and Winding Road』を聴くことができる。一度聴き比べてみてはどうだろう。


比較はナンセンス

聴き比べを推奨しておきながら、「比較はナンセンス」はないだろうと、お叱りを受けそうだが、両方を知らずして、何事も語れないのも道理である。

ボクのここでの意見としては、既に充分に聴き込んでしまったオーケストラ付きの『The Long and Winding Road』と、初めて聴く素朴な『The Long and Winding Road』を聴き比べるのは、フェアーでないということだ。ヒットチャート第一位などの華々しい既成事実のあるオーケストラ付きを選ぶのは、分かりきった結果だろうということだ。その意味でナンセンスと思うである。

実は、この投稿で一番言いたかったのは、この点なのだ。
例えば、例が適切かどうか分からないが、眼の前に2台の車があるとしよう。一台は一般に販売されているスポーツカー。そして、もう一台はそのスポーツカーにチューンアップや派手なカラーリングを施したレースカーだ。更にこのレースカーは、これまでに数々のレースで優勝実績のある車だ。
さて、「あなたはどちらに魅力を感じますか?」と問われたら、どう答えますか。まさに、こんな質問をされたのと同じではないかということだ。
レースカーの方が選ばれるという「結論ありき」の比較など、そもそも無意味だということ。

(Image created with Adobe Firefly)




ボクたちファンは、こうした二つの要素が存在すると、とかく優劣を求めがちになるが、世の中には白黒着かないことの方が多い訳で、それは「世の常」として、心残りはあるが認識する必要があるだろう。

2003年に発売された前述の「Let It Be... Naked」には、当初のポールの意向に近いアレンジの 『The Long and Winding Road』が収録されていて、幸運にも(?)ボクたちは聴くことができる。「幸運にも(?)」とクエッションマークを付けたのは、聴かないままでいた方が、あるいは、別テイクのものが存在すること自体を知らない方が、幸いなのかも知れないという意味を込めてだ。ちなみに、このアルバムをリリースするには、ポールの並々ならぬ熱意と努力、そして費用が掛かったことだろう。例えば、ビートルズの他メンバーやヨーコ・オノの了解を得ることだ。

この場合、ボクたちはオーケストラ付きテイクの方が、ビルボード全米1位になったという事前の知識がある上に、聴き慣れているという点で、優位だろうと考えるのが自然である。しかしながら、作曲者ポール・マッカートニーの学曲に対する熱い思いを考えると、心情的にはピアノによるシンプルな構成も推したくなる。

だが、何度も言うが、比較は無意味なのだ。どちらが楽曲的に優れているではなくて、名曲『The Long and Winding Road』には、こうした歴史的経過があったということを認識していれば充分なのだと思う。

未知と既知

ボクが今回この投稿で問いたかったのは、ビートルズのこの一件で感じた「音楽におけるアレンジの善し悪し」の問題と、人間の判断の問題だった。
往路はまだ見ぬ未知の世界。対して、復路は逆行とはいえ既知の世界。音楽の原曲は、まだ聴いたことのない未知なる曲。これに対し、アレンジ曲は編曲されたとはいえ既知の曲である。


Nenad DjokicによるPixabayからの画像


一般的に、人々は未知なる物に期待や興味を抱くことが多い。だが、ことによっては、無難な既知なる物を選択することもあるだろう。ところが、音楽など流行に限って言えば、未知なる物への憧れの方が、圧倒的に勝ることが多いのだ。
今回の『The Long and Winding Road』の場合、アレンジされ尽くした曲(テイク)の方が、1970年の時点ではファンにとっては新曲、つまり未知なる曲だった訳だ。
クラシックの歴史で考えると、パガニーニの原曲(オリジナル)があって、後々にラフマニノフが「パガニーニの主題による狂詩曲」としてアレンジした作品が、パガニーニのオリジナル以上に有名になった例が多い。そのため、ビートルズのケースでは、オリジナルとアレンジがどう時代で、尚且つアレンジの方が先にデビューしたから、事がややこしい(厄介)のだが。

だから、このテイクの『The Long and Winding Road』は、リリース後すぐに世界中の人々に愛され、大ヒットにつながった。「ビートルズの待望の新曲」という事実とレッテルが、大ヒットの一番の要因だったことは確かだろうが、曲自体の魅力があればこそだと思う。

前述した衝撃的なエピソードが世に知られて以降、ポールの素朴な原曲は、従来から親しまれているオーケストラ版の比較の対象になってしまった。しかしながら、ボクの個人的見解だが、この二つのバージョンは、曲の「生い立ち」を考慮したら、別の曲と考えるのが妥当ではないかと思えてきた。


まとめ的なこと

今回、「未知と既知に対する、人の反応が如何なるものか」という分析らしき事をしてきたが、実際のところ、筆者自身、頭が混乱してきた。この問題は、人間の「固定観念」とも密接に関係しているだろうから、ボクのような凡人には、到底解けないレベルの問題なのかも知れない。
何れにしても、ポール・マッカートニーの『The Long and Winding Road』という曲が何バージョンあろうとも、音楽史に残る名曲であることに変わりはないのだ。

最後までお読み頂きありがとうございました。
from JDA

<追記>
ポールが主張するオリジナルテイクとフィル・スペクターが加えたアレンジテイクの優劣は、好みの問題もあって、恐らく永遠の課題なのだろう。あるいは、本文でも触れたように、優劣をつけること自体が、無意味なことなのかも知れない。

音楽制作に携わる人たちにとっては、今回取り上げた、どの時点のテイクを世に出す、つまり製品化するかという判断は常に、頭を抱える難問なのだと思う。そう考えると、本文中で触れた騒動は、フィル・スペクターがポールに事前の打診をして進めていれば、避けられた問題だったのかもしれない。「タラレバ」議論は何の意味もなさないが、ビートルズファンからすれば、大変残念な出来事であった事は確かだ。

一方で、ソロ活動後のポールのライブ動向を知ると、オーケストレーションを加えた形で『The Long and Winding Road』が演奏されることが、多々あることが分かる。ライブ盤のいくつかにも、そうしたバージョンの演奏を散見できる。
こうしたことを考えると、ポールの胸中には、ある種の感情の変化があったのかも知れないと、単純なボクは考えてしまう。
1970年というあの頃は、ポールをはじめビートルズのメンバー、そしてプロデューサーのフィル・スペクターも含め、みんな若かったのだ。ちなみにポールは弱冠27歳だった。

<注記>
※本記事で使用している画像やイラストの一部は、画像生成AIツール(Adobe Firefly)を使用して作成しています。












2026年7月13日月曜日

鬱蒼とした樹々に囲まれた箱根「ポーラ美術館」へ

 7月3日(金)、家族とともに、久々の箱根一泊ドライブ旅行へ。
まだまだ梅雨明けしない時期でしたが、何とか雨に降られることなく、正月のあの駅伝コースの坂道を楽しむ事ができました。2日間とも曇り空で、時より雨粒が顔に当たるも、傘を差すほどのことはなく幸いでした。標高が高いこともあり深い霧が樹木を覆うほどで、非日常の景色を楽しめました。

さて、今回の旅行目的の一つが「ポーラ美術館」。
何度か行く機会があったのですが、何故か後回しになり訪問できなかった場所です。
今回、希望が叶い来館してみると、これまでなぜ後回しになったかが分かった気がしました。それは、「ポーラ美術館」は箱根旅行の定番コースの1号線、138号線からはチョッと外れていて、わざわざ行かなければならない立地だったからです。

今回は、そんな「ポーラ美術館」についてのお話です。


過去の記憶が甦る企業「ポーラ化粧品」

入り口付近の様子
左端にミュージアムショップがある。


「POLA」と言えば「ポーラ化粧品」、そして私にとっての「ポーラ化粧品」は、苦い経験と楽しい思い出が併存した会社でした。

それは、かなり時代を遡ることになります。忘れもしない1975年から76年にかけての就職活動の記憶。この1975年(昭和50)は第一次オイルショックの不況の影響を受けて、大手企業をはじめ、多くの企業で軒並み採用ゼロが実施された年でした。

学業を疎かにしていた私にとっては、この状況は甚だ辛いものがあったのです。自身が目指していた企業は、殆どが採用ゼロで、出願できたのはほんの僅か。その中に、件の「ポーラ化粧品」があった訳ですが、現実はそう甘いもんではありませんでした。いい訳ではありませんが、そんな新人募集を実施する企業でも、募集定員は1名乃至2名程度で、超狭き門だったからです。



そんな苦難の時代に、某金融機関に何とか採用が決まったのは、あの時代を考えるとラッキーだったと思います。
配属が決まり、新人として担当したいくつかの企業の中に、偶然のイタズラと言うか「ポーラ化粧品」が入っていたのです。戸塚にある工場でしたが、先方の女性担当者はとても親切で、良識のある方だったので、流石「ポーラ化粧品」だと感じたのを記憶しています。


ようやく来館できた「ポーラ美術館」

そんな思い出深い「ポーラ化粧品(正式には公益財団法人ポーラ美術振興財団)」が運営する「ポーラ美術館」に、今回初めて訪れた訳です。




セザンヌ、モネ、ルノアールなど、印象派の画家の作品が中心で、当館の自慢になっています。また、ピカソ、ゴッホ、マチスなどの作品も揃っていて、幅広いコレクションが特徴です。

その他にも日本美術や陶芸、ガラス工芸なども数多くて展示されていました。更に、多彩な展示内容と館内の独特の演出が際立っていて、他にはない独創性を感じました。この美術館の最大の魅力と言えるでしょう。

残念だったのは、天候と時間の関係で、「ポーラ美術館」の魅力の一つである、全長1kmほどの遊歩道を散歩できなかったことでした。晴れた日には、樹々の間からの木洩れ陽が、鮮やかだろうと想像できます。そんな訳で、遊歩道は次回までの「お預け」です。





自由で開放的な雰囲気が良い

ところで、「ポーラ美術館」の特徴として、自由な雰囲気が挙げられます。
例えば、全てではありませんが、多くの作品の撮影が許されていることは、他の美術館にはあまり見られない特徴です。私たち鑑賞者と作品を隔てる柵なども一部だけで、ほとんどの作品が間近で鑑賞できるのも喜ばしいことです。


「ポーラ美術館」は美術観賞の理想形かも

白い壁と大きなガラスが特徴の外観は、美を追求する会社だけあって、美しさとセンスの良さが際立ちました。ひとつ一つの作品は、広いスペースに余裕を持って展示されていて、好感が持てました。強いて指摘するとしたら、作品とその解説パネルが離れていたので、観賞の際、幾分支障があったかも知れません。



印象派の貴重な作品を身近に観られたのは、「ポーラ美術館」ならではと言えると思います。

一方、東京などで開催される最近の美術系の企画展は、混雑が目立ちます。そのため、一つの作品をじっくりと鑑賞できない、間近で観ることができないといった弊害があります。

人々が芸術に関心を持つことは、大いに結構だと思いますが、最近の美術館の実態は、芸術鑑賞の環境としては最悪だと思っています。余談ですが、そんな理由から、ここ最近私は、美術館に足を運ぶことが、極めて少なくなりました。

今回、この「ポーラ美術館」を訪れたのが金曜日でしたから、混雑もなくゆったりと鑑賞できましたが、これが土日、祭日だったらどうなっていたのでしょうか。

美術館側の採算のことを考えると、私が来館したこの日の入場者数では、NGなのでしょうが、この程度の来客数でこの種の「ミュージアム」が成り立てば、何よりだと思うのですが。

昨今の政府の方針をみると、文化芸術に関しては風当たりが強く、残念ながら先行きはあまり良くありません。経営内容が良くない施設は、閉館あるいは統合も検討されるということで、芸術を愛する私たちは軽視されているようです。

このように公共の施設が、将来的に期待できない以上、「ポーラ美術館」のような民間団体にエールを送りたいと思います。

最後までお読み頂きありがとうございました。
from JDA





2026年5月30日土曜日

自分さえ良ければ 〜あるシーンから思えたこと〜

<光景その1>

先日、久々に外食をした。その店には何度か入ったことがあったので、勝手は分かっていた。メインメニューを一つ選ぶとライス、スープ、ドリンクがお代わり自由で、お手ごろ価格で食べることができる。そのため、昼時は近くのサラリーマンや買い物客で、そこそこ混雑するお店だ。

その日も、ランチメニューのハンバーグを注文した。ハンバーグが出来上がるまでに多少の時間があるので、その間にセルフサービスのライス、スープ、ドリンクを所定の場所に取りにゆく。

所定の場所は多少混雑していた。先ず、ライスを取りにその列に並んだ。自分の前には若い女性が2人いた。1人が終わり、次に私の前の女性がライスを皿によそり終わった。ところがその女性はその場を離れようとしない。私が後ろに並んでいることは承知のハズだ。なぜなら、私が後ろに並んだ時点でチラッと私の方を見たからだ。




どうしてその場所を離れないのか、一瞬疑問に思ったが、すぐに察しがついた。隣のスープの列に移動することなくそのまま並びたかったからだ。それでは、それまでの列は変形してしまことになる。当然に、私はライスの場所まで辿り着けない。
その時点で一つの流れがストップしたことに、その女は気がついていないのか。

気が付いていないのなら、鈍感としか言いようがない。気が付いていて場所を譲らないのであれば、あまりに身勝手の一言だ。

私が無理にその場所に進むと、「何ッ、この人!」と言わんばかりの顔で睨んできた。

一体全体、いまの世の中どうなっているんだろうか?


<光景その2>

先日、友人と会った帰りのことだった。金曜日の午後3時ごろ横浜市営地下鉄の関内駅から下り電車に乗る時のことだった。

5分ほど待って湘南台行きの電車がホームに。ウィークデイの午後3時なので、それほど混雑はしていない。私はドア入り口ならび列の先頭で待っていた。私の後ろには二人ほど並んでいただろうか。

電車がゴーッという音と共に姿を現し、ホーム定位置に止まった。その出来事はドアが開いた瞬間に起こった。降りる客を差し置いて、二人の小学生低学年と見える子供が、私を含めた数人を掻き分け、降りる客をも掻き分けて空席に突進していった。

こんな時、日本人は寛大というか穏やで、誰一人子供に怒鳴りつけるような反応はなかった。
私が知る数少ない外国であるアメリカ合衆国ハワイだったら、乗降客の誰かしらがそれこそ、その子供達を注意あるいは叱りつけていたハズだ。かつてハワイ滞在時、上記と似た光景を何度か見たことがあったから。

私を含め、日本人は「事なかれ主義」、消極的、良く言えば温和なのかも知れないが、こんな場面に出会したら、私たちはどうすべきなのか。少なくとも、私が幼少の頃の「昭和のおじさん」たちの中には、子供を叱りつけるおじさんがいた。




この<光景その2>の話には実は後編がある。

前段の出来事は一瞬のことだったが、その後に座席を確保した当該の子ども二人を追って、祖母らしき高齢の女性が、もう一つ確保された座席まで来てゆっくりと座った。

そして、おもむろに孫たちに向かって発せられたその女性の一言に、私は愕然とした。
「座れてよかったネ」だった。

ちなみに、3人が座った席は、横浜市営地下鉄がルールとして決めている、高齢者や妊婦、そしてハンディキャップの人たちのために設けられた優先席「オレンジの吊り革」エリアの席だった。
更には、その優先席の窓の上部には、横浜市内の小学生が描いた、「思いやりを持って」とか「お年寄りには席を譲ろう」といった標語付きの力作画が貼ってあった。
この力作を描いたのも小学生、人を押しのけて強引に席をゲットしたのも小学生、なんとも複雑な心境である。

百歩譲って、この子ども二人が、自分の「おばあちゃん」のために必死に席を確保したとしたら、「おばあちゃん」想いの良い子なのかも知れない。ただ、それで良いのだろうか。

心なしか、効果が無かったことを、この力作画たちは残念がっているように思えた。


最後までお読みいただきありがとうございます。
from JDA


2026年5月23日土曜日

エリック・サティを聴くとき

ボクの一押しは「Je te veux (ジュ・トゥ・ヴー)」

ボクはある病で、同じ総合病院の病棟に何度か入院したことがある。ご存知のように、入院というのは、手術を伴うことが多いから面倒な上に憂鬱なものである。通常、人は肉体的な欠陥があるから入院する訳だが、入院はそれに輪をかけて精神的ダメージもプラスされるから厄介だ。
実際、入院をすると当該の病は回復に向かうが、患者の基礎体力は衰えると、医療関係者でさえ言うのだから、できれば入院は避けたいところだ。

さて、そんな絶対的ピンチ(チョッと大袈裟だが)のさなか、ボクに安らぎと希望を与えてくれたのが、病棟に流れたエリック・サティの音楽だった。

今回は、そんなサティの音楽とボクとの意外な接点についてのお話です。


(Image created with Adobe Firefly)


私は、幼い頃からクラシック音楽が大好きだった。ところが、ドビュッシーやラベルのようなフランス系の作曲家の曲はチョッと苦手だったので、ほかの作曲家の曲に比べ、聴くのは少なかったと思う。何が苦手と尋ねられても、ハッキリとした理由は自分でも解らない。モネやマネの印象派の絵画に共感できないことと、共通する点があるのかと思ったりするが、結論には至らない。

ドビュッシーやラベルと、モネやルノワールといった印象派の画家の活躍時期は重なるから、その時代の芸術全般がダメなのかも知れない。ただそれだけの事である。人間の嗜好、好みなんて、そんな単純なものではないだろうから、簡単に解析できるものでもないだろう。好き嫌いの理由が簡単に解るなら、その克服も容易なハズだが、克服できないのが現実である。


さて、そんなフランス系の曲が苦手なボクだが、当然に今回お話しするサティも、その中にある時期まで含まれていた訳だが、後々、波長が合ってきたのが、サティの音楽だった。
「だった」と言っても、その魅力に目覚めたのは10年前位からで、ボクのクラシック音楽鑑賞歴からすると、極々最近と言えるのだが。

振り返ってみると、ボクの嗜好には「食わず嫌い」という、完全に我がままな部分が幼少期からあって、それが音楽の好みにまで及んでいたのだと自己分析している。食べ物の場合の好き嫌いは、年齢とともに次第に解消されていくが、音楽に関してはそう簡単にはいかないものである。


エリック・サティ

とは言っても、前述のドビュッシーやラベル、それにフランク(ベルギー生まれだがフランスで活躍)などの代表曲は何度も聴いてはいるが、更なる深みに入ってみようとは思わないのだ。
なので、彼らに関しては、「食わず嫌い」が理由ではなさそうだ。
なので、サティは特別だったことになる。詳しいその経過は後述するが、次第にサティの魅力にハマっていくのだ。


ところで、サティの曲を初めて耳にしたのはいつだったのか。また、それはどの曲だったかを問われたら、ボクは「記憶にございません」と答えるしかない。サティの代表曲といえば、「ジムノベディ」「グノシエンヌ」だが、そのどちらかなのか、あるいは今回紹介の「ジュ・トゥ・ヴー」だったのか、それとも別の曲だったのかも分からない。

いずれにしても、そんな昔のことを記憶している人は稀だろうから、そもそもこの問自体が邪道だった訳だが、前述したボクが苦手なフランス音楽にあって、サティの曲が唯一波長が合ってきた理由を考えるには、重要な手掛かりになると思っている。徒労ではなかったのだ

そして、波長が合った最初の曲が、今回話題にしている「Je te veux(ジュ・トゥ・ヴー)」であって、この曲をキッカケにサティの迷宮に入り込めた(or 迷い込んだ)、言い換えればファンになったと自己分析した訳だ。「ジュ・トゥ・ヴー」という曲は、ボクのまったくの個人的見解だが、ある意味最もサティらしくない楽曲と思ている。それ故に入り易かったし、印象深かったのだ。それが足掛かりとなって、他の曲も抵抗感なく馴染めるようになったのかも知れない。




「ジムノベディ」と「グノシエンヌ」は、何処か魔法の世界に入り込んでしまったかのような、エキセントリックな旋律が特徴で、冒頭部分を聴けば、誰でもサティの曲と分かる奇抜さが特徴だ。それに比べると「ジュ・トゥ・ヴー」の方は、前の2曲に比べるとチョッとマイナーだが、シャンソン風の軽快で馴染みやすい曲調だ。好き嫌いの評価が極端に割れることのない無難な曲だ。

個人的な感想だが、この曲を聴くとサーカスのメリーゴーランドがぐるぐる回っている、あの楽しそうなシーンを想像してしまい。ムーラン・ルージュの雰囲気が曲全体に漂っているようにも感じられる。普通のテンポで演奏すれば5分半程の曲だが、サティの曲にあっては比較的長い曲であり、モノの本によれば当初は、ピアノ曲というよりも歌曲として考えていたらしい。


さて、それまで苦手だったフランス系の曲にあって、サティの「ジュ・トゥ・ヴー」だけが、ここまで愛着をもてるようになったキッカケは、前置きでも触れたように某総合病院での入院である。

この病院では、ボクが入院した6階フロアは、朝の7時頃になると決まってこの曲が流れるようになっていた。その演奏はオルゴールだったと思うが、特定の有名アーチストが演奏していたものではない。演奏も抑揚がなくて単調に繰り返される、いわゆるBGMだった。それでも、この曲の特徴であるシャンソン風なワルツは、華やいだパリの情景を充分に想像させてくれた。

陰鬱なボクの入院生活は、元気イッパイの看護師さんの笑顔と、サティのこの曲によって晴々とした空気感へ一変したのだった。単純なもので、その日以来、ボクは朝の7時が待ち遠しくなっていた。


(Image created with Adobe Firefly)


この曲では、サティの曲の特徴である風変わりな旋律の展開はない。また、楽曲タイトルも邦題は「あなたが欲しい」であり、特段風変わりなタイトルではない。そう言った点で、サティの楽曲にあって、いろいろな面でオーソドックスな曲調なのだ。多くのサティのCDアルバムをチェックしてみると、この曲はサティの個性が控え目なためか、この曲が収録されているアルバムは意外と少ない。元来、サティの曲はオムニバスなアルバムで数曲入るケースが多く、全曲がサティの曲というアルバムも

余談だが、ボクがこの「ジュ・トゥ・ヴー」とはじめて出会ったのは、前述したようにハッキリ分からない。それは遥か昔のことというのは確かだが、事前の予備知識なく、サティの曲だと見抜いたことはよく覚えている。この曲がサティ色が薄いと思っても、やはりサティの香りは感じとれた訳だ。「そんなの自慢するほどのことではない」と手厳しい声が聞こえてきそうだが、それでもボクとしては自慢の一つである(笑)。


最後に、この「Je te veux (ジュ・トゥ・ヴー)」が収録されている、ボクのお気に入りのCDアルバムをふたつ紹介しておこう。それが下図のアルバムである。


(図1)オルガ・シェプス アルバム「Satie」
2016年リリース

一つ目のアルバム(図1)には、今回紹介した曲「Je te veux」のほかに、サティの代表曲「ジムノベディ」「グノシエンヌ」も入っている。当該曲は15番目だ。サティのお馴染みの曲は、ほぼ収録されていると言ってよいだろう。

「Je te veux」



ロシア、モスクワ生まれのオルガ・シェプスは、6歳の時ドイツに移住し現在はケルン在住。ショパンを得意としているが、このサティのアルバムも彼女の代表アルバムと言えるだろう。

ジックリとエリック・サティの世界を堪能できるピアノによる本格的なアルバムである。

二つ目(図2)は、とてもふるいアルバムで恐縮だが、フィリップ・アントルモンというフランスのピアニストによるもの。確かこのアルバムがリリースされた当時は、我が国でサティブームが起こっていた頃だったと思う。サティの曲はその独特な曲調からか、奇を衒った演奏のCDが目立ったが、アントルモンのは極めてオーソドックスな演奏との当時のCD評を思い出す。

こちらも一枚目と同様に、サティの代表曲は網羅されている。更に、今回取り上げた「Je te veux(ジュ・トゥ・ヴー)」が一曲目に収められている。
アルバムタイトルそのものが「Je te veux(ジュ・トゥ・ヴー)」で、日本盤は邦題「あなたが欲しい」として発売された。

余談だが、このアルバムはサティの曲云々ではなくて、当時としてはいわゆる「ジャケ買い」で買った一枚だろうと思われる。


(図2)フィリップ・アントルモン CDアルバム「あなたが欲しい」
1984年リリース


同上CDアルバム内ジャケット裏面

最後までお読みいただきありがとうございます。
from JDA

(注記) ※本記事で使用している画像やイラストの一部は、画像生成AIツール(Adobe Firefly)を使用して作成しています。





2026年4月7日火曜日

「国立**、公立**」が意味すること

「稼ぐ国立博物館へ 財務省意向」の新聞記事から見えること。

私は年に十数枚だが、水彩画を描いている。出来ればもっと描きたいところだが、日常生活のなかで家事手伝いをこなし、こうしたブログ投稿を書いたり、本を読んだり、音楽を聴く時間などを考えると、現状の十数枚が適当なところと考えている。

ただ、達成感,充実感ということで言えば、水彩画を描くひとときは私の自由時間の中で、一番満たされた時間と言えるだろう。とにかく、絵画は出来上がりが一目で確認できるところが判りやすい。


こんな絵が描けたら・・・最高!


テレビや新聞をみると、戦争やテロをはじめ自然災害や殺人傷害、詐欺、汚職事件、ガソリンや食料品などの価格高騰などなど、例を挙げれば切りがないほど、私たちにとって暗い出来事ばかりが目立つ。値上げ値上げでお金だけがドンドン出て行く一方で、ストレスだけが容赦なく溜まるばかりの悪循環である。




そんな時、100%ストレス解消にはならないが、私は水彩画を描くことにしている。目新しいことではないが、そうしている間だけでも嫌なことを忘れられるからだ。ほんの少しでも芸術を嗜むということは、そうした効果をもたらしてくれる訳だ。

だが昨今、学校教育に於いて、美術、音楽、家庭、体育などの科目が軽視されていると聞く。その中でも特に美術、音楽といった分野への風当たりが、ことさら強いようだ。

そうした傾向の現れなのか、先日、次のような見出しの新聞記事を見つけた。

去る3月9日の朝日新聞朝刊の第一面に 「稼ぐ国立博物館へ 財務省意向」と題した記事である。さらに、副題には「収入不足なら『再編』値上げや『二重価格』要求」とあった。

この見出し及び記事内容が意味するところは、平たく言えば「国立の博物館、美術館は採算が合うように入場チケット収入を増やしなさい、出来なければ館の再編や価格値上げ等を検討しなさい」というメッセージと捉えた。

この内容は、文化庁(文部科学相が所管)が国立博物館・美術館(独立行政法人が運営)に対して伝えた「お達し」のようなもので、各法人が5年間の運営方針を策定するための中期目標として示した内容とのこと。




ただし、この目標が未達の場合の対応が、各所轄で異なっている。
例えば、「再編は閉館を想定したものではない」とする文化庁に対して、財務省は閉館や統合もあり得ると言った見解の相違が両者の間にはある。

いずれにしても、既存の芸術関連施設の縮小や入場料の値上げ等、私たち利用者にとって穏やかでない事態が差し迫っていることに変わりはない訳だ。
そもそも、国立の博物館、美術館は展示会開催などで得る自己収入(入場料収入など)と国費によって運営されている。ところが、今後5年の間に常設展、企画展にかかる費用の65%を入場料で賄い、後々は100%国費に頼らない運営を、というのが今回の財務省等の意向のようだ。要するに、「博物館、美術館は独り立ちしなさい」と言うことである。
国立がこうした状況になれば、やがてはその下部の公立も「右に倣え」は充分に考えられることだろう。




この新聞記事を読んで、一番に感じたのは当局の無責任さだ。
それは、チケット代の値上げや、国内在住者とそうでない人の料金に差をつける「二重価格」が導入されれば、現状よりも来館者が減るのは誰が考えても判るはずだ。現実的に増収など不可能なことは明白なのに、それを敢えて提示してくる、そこが無責任だと言うのだ。
チケット代の値上げと「二重価格」導入が与える印象はマイナスでしかない。


私が「衣食住」という熟語を知ったのは、小学生の時だっただろうか。
その優先順位は、漢字の並び通りではなく「食、衣、住」かも知れないが、この3つの要素のいずれが欠けても、私たちは生きて行けない。「衣食住」とは私たちの生活基盤そのものであることを教わったはずだ。

確かに、上記の3要素に入らない芸術という要素は、私たち人間にとっては究極のところ、無くても生きて行けるだろう。しかしながら、歴史を学べば、芸術的要素は常に人間の生活の傍らにあって、生きる喜びや精神的安らぎを人々にもたらしてくれたことは理解できる。
人格形成や豊かな人間性を育むことにも、大いに影響したことだろう。

だが、別の視点で歴史を紐解くと皮肉なことに、戦争や大規模な自然災害といった有事の際には、芸術は真っ先に疎かにされ犠牲となる要素でもあった。




ビジネスの分野でも、最近では絵画や音楽の素養が求められて時代である。書店に行くとマーケティングや企画書などのビジネス書と並んで、美術、音楽の一般教養の必要性を説いたビジネス書籍を見かけることがある。これは単なる専門分野の知識だけではなくて、幅広い芸術的センスも現代のビジネスマンに求められているいう証だ。

アニメ「機動戦士ガンダム」のテーマソングを作曲した三枝成彰氏の著書「知ったかぶり音楽論」に、表現は正確ではないが「外国のアーチストと対等にやり取りするには、音楽の話題ではなく、まず美術など芸術一般の教養が必要」といった主旨のことが書かれていたことを思い出す。つまり、専門知識だけでは、外国人との会話は広く展開していかないということだ。




三枝氏が芸術一般の必要性を指摘した著書「知ったかぶり音楽論」は、実は1993年に出版されたものだ。ここへ来てようやく、三枝氏の考えに世の中が追いついた感があると、私は感じているが、我が国の官僚の皆さんは、旧態依然の考え方(主要五教科の重視)にまだまだ固執しているようだ。

仮に、文化庁や財務省が掲げる目標が達成されたとしたら、恐らく、人気のある博物館、美術館は、パンクするだろうと私は推察する。それでなくても現状は展示物をゆったりと見学できるような優雅な環境にないからだ。人ひとが群がって、一般観覧者は間近で作品を見ることができていない実態を、彼らは分かっているのだろうか。日本の博物館、美術館は芸術作品を鑑賞する環境とは程遠い現状にあることを知っていただきたい。




某テレビドラマの常套句(台詞)ではないが、「事件は現場で起きているんだ」の認識に近いものを感じてしまう。上部に立つ人たちは現場の状況を肌身で感じていない。単なるアンケート調査結果だけを見て、状況を把握したかのような勘違いをしている。土日祭日を含めた開催中に博物館、美術館を、一般人として訪れていただきたいものだ。混雑の実態を体感すれば、今の展覧会場がじっくりと芸術作品を鑑賞する状況にないことが分かるはずだ。上記で述べてきたような財務省、文化庁の不条理な意向は、発想として出てこないと思うのだが・・・

こうした傾向は、今回例として揚げた国立博物館、美術館だけに限られたことではない。実は公立図書館の運営にも及んでいるのだが、その件に関しては別投稿にてお話したいと考えている。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA

2026年3月15日日曜日

いま時のテレビCMについて

ボクが幼少の頃の遊びと言ったら、「メンコ」、「ビー玉」、野山での虫捕り、そして野球などでした。
そんな時代、ボクらの娯楽の王様は断然テレビでした。



そのお陰(?)で、ボクは視力が低下し眼鏡をかける羽目になりました 。テレビ画面近くで見ていたことが原因と、当時親は言っていましたがその真偽は定かではありません。途中、コンタクトにしたことも、でも眼鏡は今なお必需品で、その煩わしさに日々耐えている毎日です。

さて、そんなテレビですが、最近ではニュースや天気予報など、極々わずかな番組をのぞき見ることはなくなりました。

その理由としてはいくつかあります。例えば時間的な理由が割合としては大きいですが、番組コンテンツの低俗化を感じることもその一つです。前者の時間的な問題は、自分自身の工夫で解決できることですが、後者の番組の低俗化の方は、ボクにはどうすることもできません。
ですから、この先もテレビを見る時間は、増えることはないでしょう。


上記「時間的な問題」以外で視聴しなくなった理由

  1. 「食レポ」が多すぎる
  2.  番組とコマーシャルがタイアップ(一体化)したような番組コンテンツが目立つ
  3.  全般的にCMの数量が多い
  4. 各テレビ局の独自性が感じられない
  5. その他 


お分かりの通り、CMに関連することが多いですが、誤解のないように申し上げれば、ボクは決してテレビにおけるCMの存在を全面否定している訳ではありません。

テレビ放送局が番組スポンサーからのコマーシャル料によって、大部分が成り立っていることを考えれば、CMの存在を否定はできません。更に、ボクたち視聴者もCMによって、世の中に埋もれている優れた製品や価値ある情報を知り得る訳で、CMが必要不可欠な存在であることは十分理解しています。
その昔、某お菓子メーカーの方が、「どんなヒット商品のお菓子でも、宣伝をしないと数か月で売り上げは激減し忘れ去られてしまう」という主旨のお話をしているのを聞いたことがあります。それ程に、お菓子業界の競争が熾烈なことと、宣伝の重要性をその時改めて知らされたのでした。



要は、CMの量ではなく、CMを流すタイミングではないかと考えます。CMの質と内容は優れているに越したことはありませんが、頻繁に流されたら嫌気がさします。費用対効果(コストパフォーマンス)を考えれば、CMの質と内容を向上させるより、CMを流すタイミングの方を工夫した方が効率が良いように感じます。

正直なところ、最近の放送はCM数(量)が多過ぎると思います。例えば、ボクが視聴している数少ない番組の中の某番組では、30分の番組でありながら途中30秒程度のCMが6~7本流されます。その他に、番組の前後でも2本程度流されているのです。幸いその番組はドラマ系ではないので支障はないのですが、仮にドラマや映画だったらストーリーが中断されてしまいます。こうなると、折角のCMが反感を買うことになります。

ボクはそれほど心が広くないので、いまの放送のやり方ではドラマや映画を観ることは、苦痛以外のなにものでもない訳です。そんな経緯から、テレビを見る時間は極めて少なくなっていったのです。

それと同時に、CMの在り方に対して、ボクはある疑問を抱くようになったのです。ですが、その話の前に、テレビ草創期のCMがどうだったかについて、簡単に触れておきたいと思います。

  ◇     初期のテレビCMはノドカだった

 かつて、テレビのCMは番組の本編と本編との間に一つだけ挿入されていたように記憶していますが、なにしろ当時はボクも幼かったので、その真偽は保証できないことを、先にお断りしておきます。
さて、モノの本によれば民放放送がスタートしたのが1953年で、その時に日本初のテレビCMも放送されたとのこと。ちなみに、そのテレビ局は日本テレビで、スポンサーは精工舎(現SEIKO)となっていますが、これには諸説あるようなので、ここでは触れません。

ある程度の年配者であれば、その頃のことを覚えているかも知れませんが、70年以上も前のことでです。若い方は当然、リアルタイムにその当時を知らないので、知っていたとしても知識としてでしょう。筆者のテレビに関する記憶は、テレビが一般家庭に普及してからなので、1953年よりだいぶ後の記憶になります。


そう!あの頃は一時間番組でCMが流れるのは、多くて4本程度でした。
更に、今では信じられないでしょうが、1番組1スポンサーというのが原則でした。
それは、当時の大きな企業なら、1時間番組ぐらい一社で提供できる余裕があったからでしょう。あるいは、1時間番組のコストが今に較べて低価格だったのかも知れません。当時と現在では社会情勢も大きく異なっているので、そんなこともできたのでしょう。
自身の記憶では、「東芝 日曜劇場」「ポーラ テレビ小説 」「花王 愛の劇場」などの企業名を冠した番組が、一社提供というケースが多かったように思います。否、一社提供だから許されるステータスシンボルだったのでしょう。

また、「世界ふしぎ発見(日立)」「題名のない音楽会(出光興産)」「ミュージックフェア(シオノギ製薬)」などが、かなり長期にわたって一社提供を続けていたようですが、現在は「題名のない音楽会」のみが創業者の理念に基づき、一社提供を貫いているとのこと。(注1)

最近では、ご存知の「サザエさん」が東芝の一社提供でしたが、何年か前に複数社の提供に変わっています。

概ね、1960年代は一社提供が原則だったようですが、1970年代辺りからその傾向が崩れ、バブル期を境にほとんどの番組が、複数社提供に移行していったようです。

ただ調べて行くと、こうしたコマーシャル業界の複数スポンサーの流れは、前述したような単なるコスト面だけではなくて、一社提供による弊害(一例として、一社独占による民主的な番組運営の難しさ、番組構成上のリスクなど)を回避する目的もあったようです。この辺りの複雑な事情はボクたち業界外の人間には想像できないところです。


◇初期のテレビCMは分かりやす

次に、コマーシャル自体の内容ですが、当時はお菓子、食料品、清涼飲料水、医薬品、文房具、電化製品、自動車などのCMが多かったのを思い出します。筆者の一番の思い出は、丸美屋食品の「ふりかけ」のCMで、これには8マンのシールがおまけに付いていました。

現在でも業種的には共通しますが、趣味や贅沢品などは今よりもずっと少なかったのです。1960年代のCMでは製品名を連呼したり、商品の有利性を全面的に強調するなど、現代の凝った作りのCMに較べると、ある意味、単純で稚拙で素朴なコマーシャルが多かったように記憶します。

以上がテレビ草創期のCMの大まかな特徴だと思っています。


最近の洒落たCMに較べると、総じて単純でストレートなCM作品が多かったという印象です。
ただ、それも「アリ」かと思います。
何故なら、現代のテレビCMを冷静に見ていただければ納得できると思います。

広告制作会社に高額な金額を払い、依頼して出来上がったCMは、確かに素晴らしい作品なのでしょう。出演者もメジャー、画像もきれい、笑いもありオチもある。CMの構成としては完ぺきに近いのでしょうが、そのCMがテレビで流されたとき、ボクは個人的には何か物足りなさを感じ、スッキリしないのです。
見終わった後、冷静に振り返ってみてください。
「何かが足りない。」「何かとは?」そう!「今のCM、何のCMだったっけ?」と気づくはずです。

上記のような経験、みなさんはありませんか?
ボクはこの事例こそが、現代CMに対して一番に抱く違和感であり、テレビに失望した要因と言っても過言ではありません。こうした内容のCMがいくつも連続して、毎日のように流されている訳です。

振り返ってみて、みなさんはCMを何となく見ている傾向はありませんか。ボクもある時まではそうでした。
いまやテレビが家庭にあるのは当たり前。そして日常生活のなかで、無意識にテレビのスイッチを入れ、何となく番組本編とCMとの境界線(一区切り)を感じないままに、テレビを見ているということはありませんか。

それは、チョッと語弊があるかも知れませんが、コンテンツいわゆる番組本編が、視聴者を惹きつけるだけの魅力ある内容になっていないから、と言えないでしょうか。あるいはCM自体がイメージ型CM(注2)と言って、上記事例のような「何のCMか分かりずらい」ことに起因しているのかも知れません。

今の時代、マスメディアと呼ばれている世界では、宣伝の影響力は絶大で無視できない存在であることは間違いありません。しかし、残念なことに現代の宣伝広告、CMの主流はイメージ型CMなのです。



コマーシャルの原点は、企業イメージの定着向上、ブランドの認知度向上、商品やサービスの購買力アップを目的にすることだと考えます。ところが、現在主流になっているイメージ型CMでは、企業イメージ、商品イメージをカッコ良く表現することが優先され、それが結果的に災いして、本来訴えたかったことがオボロゲになっているような印象をボクは持ちます。
なので、ボクはいまのCMは制作者の自己陶酔型、自己満足型と勝手に呼んでいます。

余談ですが、思い起こせばイメージ型CMは、コピーライターという職業が注目された1980年代頃ころから始まったように思います。バブル経済全盛期の企業の余裕が窺える、社会現象と言えるのかも知れません。

また、もう一つの疑問点は、「CM出演タレントさんだけが目立って、肝心の宣伝物が陰に隠れてしまっているではないか」ということで、ボクの中にある理解できない点です。
本業よりもCM出演のお陰でメジャーになったタレントさんは、名前は控えますが過去に沢山いたように思います。ひねくれた考え方かもしれませんが、CM出演オファーは、タレントさんにとって、まさしく一挙両得と言えるのではないでしょうか。CM出演料が入り、尚且つ自分自身の宣伝にもつながる訳ですから。


思えば、成果に見合わないイメージ型CMを作り、出演タレントに高いギャラを払い、タレントだけがアップグレードしているという実態を、果たして企業はどう見てるのしょうか。

企業にしてみたら、言葉は悪いですが「踏んだり蹴ったり」「本末転倒」だと思いませんか。
バブル期ならまだしも、不景気で値上げ値上げと騒いでいるご時世で、宣伝主の団体、企業などは何と「お人好し」なのだろうと、単純なボクなどは絶対に思ってしまいます。

不安定な世界情勢、その中で世知辛いわが国の経済状況を考えたとき、ボクは「イメージ型CM」よりも、かつてのCMの原点である「商品名の連呼」や「商品の有利性アピール」といったコマーシャルの基本に戻ることの方が、コストパフォーマンスは良いのではと考えています。



最後にもう一つ。
またまた、古い話で恐縮ですが、テレビ創成期のCMでは、有名タレントさんではなくて、CM専門のタレントさんがいました。その方たちは当然に、有名タレントよりもずっと低いギャラでCM出演していた訳ですから、企業の負担も低く抑えられていたはずです。
そんなことも一考かと。

ちなみに、ボクはへそ曲りなので、例えば有名タレント(ご贔屓を問わず)が自動車の宣伝をしていたとしても、それを機にその車を買おうとは決して思いません。イメージもオーバーラップすることはありません。
このようにボク自身は絶対にありませんが、こうしたCMでの成約率が、どの程度あるのかという統計数字には興味があるところです。


最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA

2026年2月6日金曜日

ガビチョウという鳥を知ってますか?

 ガビチョウ(画眉鳥)という鳥をご存知ですか?
体調20cmほどのスズメ科の野鳥で、私の住む横浜で2、3年前ぐらいからその鳴き声を聞くようになりました。

今年も2月の頭ごろに第一声を聞きましたが、去年よりは少しばかり早いお出ましのように思います。その鳴き声、鳴き方に特徴があって、名前の響き同様にかなり喧しい鳥です。

私の周辺で聞くガビチョウの鳴き声は、4種類ぐらいの鳥の鳴き方をランダムに繰り返しているように感じられ、率直に言ってウルサイです。本来、野鳥の鳴き声を聞くと私たちは癒されるのが常ですが、ガビチョウの鳴き声はお世辞にも、気が休まると言えない鳴き方です。



2025年5月9日撮影
自宅の雑木林にやってきたガビチョウ 

調べてみると、やはり私の第一印象通り「迷惑鳥」、いわゆる害鳥(特定外来生物)に属するようです。前述した騒音問題や在来種への影響、生態系の観点などから害鳥に指定されたようです。

本来は中国南部からアジア地域に生息していたようですが、70年代に人間のエゴ行為、要するに鳥類のペットブームで日本に輸入され、その後、南方から広範囲に生息域を拡大していったそうです。縄張り意識が非常に強く、その鳴き声は縄張りアピールそのもののように感じます。

3月ごろにはウグイスの登場で、活動時期が重なりますが、両者が同時に鳴いているのを聞いたことがありませんから、恐らく縄張り意識、ライバル意識が強いのは確実だと思います。

とは言うものの、そんなガビチョウでも夏が終わり秋になるころには、鳴き声を聞けなくなります。昨年もそうでしたから。

そんな時は、不思議なものでチョッピリ淋しい心持になるのは、そんな喧しい鳥でも情が沸くのでしょうか。


春はもうすぐ


ですから、これからの季節ガビチョウの鳴き声も迷惑がらず、今年は大いに楽しみたいと思っています。この寒さが峠を越えれば、ウグイスの鳴き声も楽しめ、胸ワクワクの季節がやってきます。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA