2024年12月17日火曜日

ビル・エヴァンス(Bill Evans)、わたしの一番のお気に入りアルバムは?




Eva MichálkováによるPixabayからの画像

 


正直なところ、わたしは友人というものにそれほど執着はありません。
かと言って、これまでまったくいなかったという訳ではありませんが、数人いれば十分だと感じていました。
学生時代でも、打ち解けた友は2、3人で充分でした。
それは決して強がりだった訳ではありません。
当時は、バイトなどもしてましたから、只々自分の時間が欲しかったというのが、主な理由だったように思います。また、一人だと相手に気を使う必要がなく煩わしさも省けたからです。

こうしたわたし流のスタンスは社会人になっても相変わらずでしたが、ひとり例外がおりました。
彼といると前述のような「気を使う」ということがなかったからです。
それに彼(以下T君としましょう)はわたしのジャズ談義のお相手をしてくれる良きジャズ音楽アドバイザーという存在でもあったからです。

ここで、なぜT君のことを持ち出したかというと、T君の風貌、髪型(7:3分けの髪型)、服の好みなどがこれからお話しするビル・エヴァンス(Bill Evans)に似ていたからです。
それでいて、T君の一番のお気に入りはアート・ペッパーだったのですから笑えます。


Дарья ЯковлеваによるPixabayからの画像


ビル・エヴァンスを意識しているのかと、当時T君に問いただしたことが何度かありましたが、その度に苦笑いで誤魔化されてしまいました。


自宅にはわたしなど足元にも及ばない百万円単位のオーディオセットがあって、それがT君一番の自慢でした。なかでもスピーカーには一番コダワリがあったようで、メーカーは忘れましたが、それは途轍もなく大きな箱(?)でした。その上、T君は根っからのレコード派で、一時CDを集めたこともありましたが、ある時「CD全部処分した!」とあっけらかんと言っていたのがとても印象に残ります。
そう、そんなT君は不幸にも50代前半に、若くして亡くなってしまったのですが、それ以降ビル・エヴァンスのジャケットを見るたびにT君のことを思い出します。



PexelsによるPixabayからの画像


最近では、当時T君とよく行ったDISK UNIONに立ち寄ることも多くなり、そこにいるとレコードを一枚一枚吟味するあのT君の後ろ姿が懐かしく思い出されます。


前置きはさておき、本題に入りましょう。

今回はビル・エヴァンスの数ある名盤の中で、わたしの一番のお気に入りアルバムの紹介です。

振り返るに、わたしはジャズというジャンルの音楽をかなり昔から聴いていますが、果たして「誰が一番好きなのだろうか?」、あるいは「どのアルバムを一番聴いてきたのか?」など改めて真摯に考えたことなどなかった気がします。
人によっては、そんなこと無意味と一蹴されそうな事なのかも知れませんが、人間年齢を重ね、ある時期を迎えると、そんな他愛無いことを考えたくなるものなのです。
ですから、お付き合いいただける方は、その点を踏まえてこの後をお読みいただければと思います。




そんな訳で、結論から申し上げれば、エヴァンスのアルバムでわたしの一番のお気に入りは、1977年スタジオ録音の「You Must Believe In Spring」です。



< You Must Believe In Spring >


Trio
Bill Evans(p)
Eddie Gomez(b)
Eliot Zigmund(d)

< You Must Believe In Spring >
  • 01  B Minor Waltz
      マイナー・ワルツ(エレーンに捧ぐ)
  • 02  You Must Believe In Spring
      ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング
  • 03  Gary's Theme
      ゲイリーのテーマ
  • 04  We Will Meet Again
      ウィ・ウィル・ミート・アゲイン(兄ハリーに捧ぐ)
  • 05  The Peacocks
      ピーコックス
  • 06  Sometime Ago
      サムタイム・アゴー
  • 07  Theme From M*A*S*H
      マッシュのテーマ
  • 08  Without A Song
      ウィズアウト・ア・ソング (ボーナス・トラック)
  • 09  Freddie Freeloader
      フレディ・フリーローダー (ボーナス・トラック)
  • 10  All Of You
      オール・オブ・ユー (ボーナス・トラック)



若い頃のわたしは、コルトレーンやマッコイ・タイナーのような楽器を全開で演奏するようなプレイヤーが比較的好みでした。しかしながら、それも歳とともに薄れ、激しいものからシットリとした演奏が心地よく思えるようになったのです。

音楽思考も年齢とともに「動から静」へと移り変わるのは極々自然なことなのかも知れません。その結果、行き着いたのがエヴァンスだったという人も多いのではないでしょうか。
そんなわたしもその一人です。

極めて一般的と言えばそうなんですが、へそ曲がりなわたしにとっては「一般的」に収まることは、多少屈辱に思えることがありますが、最近では割り切れるようになってきました。
そんな変化に家族からは、そのうち「演歌が好きになるのでは?」と揶揄されることもあります。(演歌ファンの方すいません)
余談ですが、実は「津軽海峡冬景色」など以前よりは違和感なく聞けるようになったのも事実です。


話を元に戻します。
さて、そんなわたしも当然ジャズファンでしたからビル・エヴァンスのレコード、CDは以前からそこそこ持ってはいましたが、それも「PORTRATE IN JAZZ」、「INTERPLAY」、「GREEN DOLPHIN STREET」などなど極めて代表的なものばかりでした。
そんな時、サブスクのストリーミングでアルバム「You Must Believe In Spring」を聴き、エラい衝撃を受けました。それは全身からすべてのチカラを抜き取られたような衝撃でした。


< PORTRAIT IN JAZZ >

< INTERPLAY 


< GREEN DOLPHIN STREET


確かに、それは今まで自分が知っていたエヴァンスではあったのですが、その時は更なる高みに位置するエヴァンスに感じられました。

そして、「もっと早くにこのアルバムに出会えていたら・・・」と当時は後悔の念に駆られたことをいまでも覚えています。
それ以来、ビル・エヴァンスを再認識、再評価したのです。

エヴァンスファンの方からすると「何、今頃言ってんの!」とバカにされそうですが、「まだまだ自分は聴き足りないな!」と痛感しているところです。


言い訳がましいですが、サンタナはじめ70年代のロックやクラシックなどを二股三股で愛好しているわたしとしては、どうしてもそれぞれが手薄になってしまいます。村上春樹氏のようには到底いきません。

ジャズの世界はクラシック同様に奥が深くて、わたしの知らない第2第3の「You Must Believe In Spring」のような名盤が埋もれているのかも知れませんね。
その意味ではワクワクしています。


思い返せば、いっとき、毎日このアルバムをかけていた時期がありました。
オーディオ装置を前にしてジックリと聴き込むもよし、パソコンを前にして何か作業をしながらでもよしと、エヴァンスのアルバムは自由自在なところが幅広いというか、奥深いと思います。そんな点がエヴァンスのアルバムのひとつの特徴であり魅力なのかも知れません。
中でもこのアルバムは最高に充実した内容だと思います。


タイトル曲の「You Must Believe In Spring」はもちろんのこと、すべての楽曲が美しいメロディーで纏まっていて、なんとも贅沢なアルバムです。
強いて言えば、わたし的には9曲目の「Freddie Freeloader」は全体のバランスからするとチョッと異質に思えます。
しかし、気分転換という意味ではアクセントになります。
まあ、8、9、10曲目がボーナス・トラックで追加されたということを考えれば当然なのですが。
いずれにしても、このアルバムの魅力は選曲の素晴らしさだと思います。

演奏スタイルがどうのとか、テクニックがどうのといった専門的で高度なことは、わたしには分かりませんが、エヴァンスらしさ、聴きやすさ、ジャズ音楽の魅力を誰でも感じ取れるアルバムだと自信をもって推奨できます。

ちなみに、キース・ジャレットのソロアルバム「The Melody At Night With You」は、
エヴァンスのこのアルバムを意識しインスパイアーされたのではと、個人的には思っています。


キース・ジャレットのソロアルバム
< The Melody At Night With You >


調べてみると、「You Must Believe In Spring」というアルバムは1977年収録のワーナー移籍第一弾のアルバムとして発売されています。エヴァンスのディスコグラフィーデータで年代順に見てみると、彼は1980年9月に亡くなっていますから、彼の晩年に近い作品と言って良いかと思います。

注目したいのは、このアルバムが制作されたのがエヴァンスのトレードマークである、あの黒縁眼鏡、ネクタイ、7:3に分けたヘアースタイルというお馴染みの正装から一転して、長髪で口髭、顎髭をはやしたラフなスタイルに変身した時代の作品ということです。
「PORTRAIT IN JAZZ」のジャケット写真の彼ではないのです。


< PORTRAIT IN JAZZ >

トニー・ベネットとの1975年のアルバム


さらに驚きなのは、この時期のエヴァンスは若かりし頃からの薬物依存の影響で、肉体的、精神的に限界に近い状態だったことです。
長年の薬物接種の影響で、指の動きもままならなず、体力的にも演奏活動は不可能ではと周りからも危惧され、当時入院という提案もあったようです。
髭などをはやし髪を長髪にしたのも、病状の悪化による見た目の変化を隠すためだったと言われています。
しかしながら、彼はその後も演奏活動、アルバム制作を続けていきます。

タラレバ論はあまり好みませんが、もしもエヴァンスがここで周りの人の提案を受け、入院治療をしていたら、わたしたちはこの名盤に出会えていなかったかも知れません。その代わりにもっと多くのエヴァンスのアルバムを聞けたかも知れない、なんて考えることが無意味でキリが無くタラレバ論を嫌うところなんですが・・・


Anindita Erina KhalilによるPixabayからの画像


さて、上記でこの「You Must Believe In Spring」というアルバムが、まず選曲が素晴らしいということに触れましたが、更につけ加えると全体を通して物静かでどことなく儚さを感じるわたし好みのアルバムであるということです。
このアルバムが晩年の作品であることを知ると頷ける部分は多いのですが、前述のようなボロボロの状況下で制作されたことを思うと息が詰まるほどに切なく感じます。

エヴァンスは人一倍ジャズ音楽を愛し、追求し、演奏し続けました。そしてそんな彼に常に付きまとったのが薬物でした。どうして彼は人生のほとんどの時間を、自虐的とも思える程に薬物と関わりを持ったのでしょうか。ジャズミュージシャンには薬物と関わり自ら破滅していった人は多々います。前例もたくさん知っていたはずです。薬物が自身の健康を害し、人生を短縮することは充分にわかっていたはずなのに、なぜ彼らは同じ道を辿ってしまうのでしょうか。
そこが、わたしのような凡人には理解し難いところなのですね。

自身の体力の衰えを感じつつも、なおも薬物に傾倒し演奏活動も続けた晩年のエヴァンス。
このアルバム「You Must Believe In Spring」は数ある彼のスタジオ録音の中でも、間違いなく最高位に位置するアルバムだとわたしは確信しています。

身内の度重なる死と自身の病を背景にしながらできたこのアルバム。
アルバムタイトルは、そんな真っ暗などん底の現状から微かな希望の光さえ見出せたらというエヴァンスの期待が「Believe」という単語に象徴されているように、稚拙なわたしには思えてなりません。

そして、この見事なアルバムが世間一般に言われているところの、薬物による一時的な精神の興奮などによってできたものではないと信じたいです。

最後までお読みいただきありがとうございました。
そして、この投稿が前述のT君へのトリビュートとなれば幸いです。
from JDA








2024年12月6日金曜日

カスハラ、カスハラと言うけれど

筆者はかつて、ある公立中学校に苦情および改善要望の電話をしたことがあります。 部活帰りの学生が横一列に並んで歩道を塞いだ状態で下校している迷惑行為に対してでした。 こうした行為に遭遇したのは、その時が初めてではなく、それまでに何度もありました。
迷惑に感じていたのは、わたしひとりではなかったはずです。
  
その電話にでた教師らしき女性(以下A)は、 はじめは苦情の内容を黙って聞いていましたが、 「職員会議等で報告しておく」程度の極々事務的な回答で終わろうとしました。
こちらが「生徒の下校時には、数人の先生で見回りなどしてほしい」旨の要望をしたところ、 そのAは「わたしたちの仕事を増やせということですか」と切替してきました。 
まさかこの状況下で、このような言葉が返ってくるとは夢にも思わなかったので、その時は呆気にとられました。これではどちらが苦情を訴えてるのやら。
その間、謝罪の言葉もありませんでした。 それは日常の不満をこの時とばかりに吐き出すかのような攻撃的な口調にわたしには聞こえました。 

timelessearthによるPixabayからの画像



 かつて、民間の企業で働いていたわたしとしたら、たとえ原因が自分になくても、仲間、同僚にミスがあった場合、先ずは「申し訳ありません」の一言をと教えられてきましたので、そのAの対応は信じられませんでした。 

先ずこのAの場合、その時点で根本的に自分の立場をわきまえていないと言えます。
何か物事を履き違えているように感じました。

 昨今、先生方の長時間労働が社会問題になっていることぐらいこちらも承知の上です。
しかしながら、「そんな労働条件の問題は然るべきところへ訴えなさい。」と言いたいところです。自分たちの不満をわたしたち部外者にぶつけてくるとは、只々呆れるばかりでした。

一歩譲って、心情はわかるとしても、これでは同情はできません。
世間にはもっと過酷な労働を強いられている民間の職場がいくらでもあるのだと、このAを諭すような同僚(立派な先生)はいなかったのでしょうか。

最近のカスハラ問題のニュースを聞き、こんな以前のやり取りを思い出し、今回の投稿に至った次第です。 

カスハラ問題の問題点

AmbrozによるPixabayからの画像



 政府や東京都が取り組んでいるカスハラ問題が、より良い社会、住みやすい世の中を目指してカスハラをなくそうの主旨はわかるのですが、 これまでの情報では具体的にどうするのか正直、全体像が見えてきません。

この問題を考える場合、まず必要なのは顧客側の言い分と店員(職員)側の言い分の現状把握をすることだと思います。その後、それぞれの立場(言い分)の見直しが必要だと個人的には考えます。
そして、何よりも重要なことは、どうしてカスハラと言われるほどの大事(事件)に至ったかという、トラブルの原因把握だと思います。

従業員、職員の接客態度についても、この際クローズアップして社会問題化していただきたいものです。 多くのまっとうな社員さんが、一部の身勝手な顧客のために、悩んだり不快だったりと苦悩しているのは、 同じ経験を共有してきたものとして、実感として理解でます。

その反面、ほんの一部なのでしょうが接客態度がダメな店員や職員が存在するのも現実です。
また、日ごろの鬱憤をチョッとしたきっかけで爆発させる顧客がいるのも事実です。
カスハラの大半はこうした人たちが、引き起こしているといっても過言ではないと思います。多くの人間がひしめき合う世の中には、必ずこういった自分本位の人たちはいるものです。
 

前述のわたし自身の体験で考えてみると、前述のAにとっては、わたしの苦情電話を恐らくカスハラと捉えただろうと推察します。わたし自身もはじめは冷静でしたが、Aの言葉使い、対応の仕方から次第に言葉がキツくなっていったのは確かです。世の中のほとんどのトラブルがこんな始まりからエスカレートしていくのだろうと思いました。

StockSnapによるPixabayからの画像



現代社会においては、店員とお客の立場というのは、ところ変わればその立場が逆転することもあるでしょう。人間社会は持ちつ持たれつですから。そう考えたらお互いが相手の立場になって物事を考えてあげれば、つまらないトラブルも未然に防げるのではと、わたしはよく考えることがあります。

世の多くのトラブルは、ほんの一部の人たちの不注意や自己中、ワガママなどから発生するのではないでしょうか。交通事故、口論、はたまた事件然りです。
そして、そうした少数派のために多くの人たちが不便を強いられ、迷惑しているのです。 

実は、こうした少数派の問題は世の中にたくさん存在しているのです。
例えば、インターネットは、多くの人たちがネット検索やECなどでその便利さを体感し、恩恵を受けています。 その反面、一部の悪意ある人たちによって、ウィルスやスパムがネット上に仕掛けられ、わたしたちは余計な出費やさまざまな損害を被っています。 
本来なら、インターネットの利用に際しウィルス対策のためのセキュリティーソフトなど必要ないわけですが、 残念なことに、わたしたちは年間数千円から数万円の無駄なお金をそれに費やし浪費しているのが現状なのです。

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 今回のカスハラ条例も、そうした一部の心無い人たちがいるために設けられるようなもの。
そう考えると、今回の条例の新設はまったく不合理でなりません。 さらに、その中身を見ると「カスハラ」の定義も不明瞭で理解し難い点が多々あります。 わたしの認識不足なら訂正しますが、すべて企業に対策を強いているだけのように思えるのですが。
 
従業員を守ること、お客を大切にすることは企業としては当然のことです。 これまではトラブルを起こした当事者たちだけに止まっていたのが、 企業や組織まで広がった点は評価しますが、全般的に不十分な対策に思えます。 



企業としては従業員に非はなかったか、お客は無理難題を店に投げかけていなかったかなど、 原点に立ち返って公平に検証すべきだと思います。
しかし、 企業への課題押し付けだけでは、体裁を繕った、みせかけの対応でしかなく防止策としては不十分だと思います。 


確かに、条例等施行され徹底されれば、抑止力としてカスハラは減るでしょうが、 苦情、怒りの程度のどこまでがカスハラに該当するのかといった線引きの問題が最も厄介で、極めて重要です。
そうでないと、今度は正当な苦情等が言いずらい社会になってしまうという危険性があるからです。

Gerd AltmannによるPixabayからの画像

 

その意味で、企業や組織での職員の接客教育は極めて重要に思います。
ですが、社員教育の徹底なんていって、接客慣用句をロボットのように繰り返されても、お客としては少しも有り難くありませんが。
反対に、馬鹿にされているように感じる顧客もいるかも知れません。
それでなくても最近はセルフレジなどが普及し、人と人との繋がりが益々疎遠になっているのですから、 せめて従来のレジなどでは血の通った会話がほしいものです。 こんな些細なことでも、毎日毎日の積み重ね、一人ひとりの努力が現状をより良い社会に変えていく原動力になると信じたいです。
 
要は思いやりです。相手の身(立場)になって如何に考えられるかが重要なのです。
 「我が身を抓って、人の痛さを知れ」とは数年前に亡くなったわたしの母親の口癖でしたが、 そうしたことわざ(教訓)を死語だ、古臭いと一蹴するのではなく再考してほしいと思います。 このフレーズは端的に人間関係の全てを物語っていて、世間を上手く渡る秘訣、キーワードであるとわたしは思っています。
そして、この機会に企業は「接客」について今一度見つめ直してほしいと思います。
お客様は神様でも仏様でも決してありませんが、企業(店)にとって大切な存在であることに変わりないはずです。

 バスや電車に乗ったとき、お年寄りに席を譲るなんてレベルの高いことからではなく、 入口出口では相手を優先するとか、道の真ん中で立ち話をしないなど極々当たり前のことから始めればいいのです。
 「謙譲の美徳」なんて、大袈裟な言葉が日本人の形容だった時代があったようですが、それも遥か遠い昔のこと。現代社会は誰もが何らかの不満を持っていて、誰もがストレスを抱えている、余裕のない、我先我先の世知辛い時代です。
だから、ちょっとした衝突が数倍の大きさになって事件化するのだと思います。

Engin AkyurtによるPixabayからの画像



カスハラも素を正せば、些細なことが原因だったのかも知れません。そんなとき、各々が一歩譲って相手の気持ちになれば、カスハラに至らなかったケースもあったでしょう。
繰り返しますが、大事なのは思いやりです。それは極めて微力で即効性はないかもしれませんが、必ずや社会に有効であることを知ってほしいです。
現代のわたしたちは、マナーに関して極めて初歩的なことが、残念ながらできていないのだと思います。

こんなことを書くと「古い!」と一蹴されそうですが、敢えて言えば、わたしたちの親の時代、わたしが幼少の時代、それは日本がまだ暗い貧しい昭和の時代でしたが、世の中はもう少しマナー常識思いやりもあったように記憶します。

朝の何気ない「おはよう!」の挨拶やお客と店の主人とのチョッとした会話が、どれほどその日を明るくしてくれるかを、ほとんどの人は忘れているのです。
カスハラ問題は現代社会を見直す良い機会なのかも知れません。
たかが一歩、されど一歩です。
 
 最後までお読みいただきありがとうございました。 
from JDA