2025年4月15日火曜日

ボクと時間と珈琲と

その昔、「それを幼い子供に飲ませると知能が遅れる」との噂が、実しやかに囁かれていた時代がありました。

ボク自身、未だにその真偽はわからないのですが、小さいころから現在までズッとそれを飲み続けています。

一方で、「それを飲むと夜眠れなくなる」という別の弊害(?)もあるようなのですが。
見方を変えると、「眠気を覚ましてくれる」という効能にもなるわけで、物事の良し悪しは視点を変えれば様々なのですが・・・


wal_172619によるPixabayからの画像

もうお分かりですネ。
その正体とは、琥珀色の薫りとほろ苦い味わいが魅力の嗜好品「珈琲(以下コーヒー)」です。余談ですが、ボクは「珈琲」という漢字表記が大好きですが、これ以降は「コーヒー」表記とさせていただきます。

一見、悪い評判が目立つコーヒーですが、今ではすっかり私たちの食生活に溶け込んで、無くてはならない存在になっています。

そんな訳で、今回はボクが大好きなコーヒーにまつわるお話です。




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そもそも、コーヒーはチョコレートやケーキと同様に、従来から日本にあった飲食物ではないことはご承知の通りです。

そんなコーヒーですが、日本に初めてお目見えしたのは意外と古く、江戸時代。
そう、鎖国の時代にオランダ人によってもたらされたようです。しかしながら、この時代はまだまだ限られた人たちだけのもので、一般庶民まで広まらなかった訳です。
日本には昔から「お茶」の文化がありましたから、当然といえば当然のことですネ。

それが明治の時代になると、文明開化の下に舶来主義が広まり、文化人を中心にコーヒーを嗜好するという文化が広がって行きました。東京や神戸などに喫茶店、カフェができたのもこの時代からのようです。

とは云うものの、一般大衆にまで広まるのは、まだまだ先の話で、第二次世界大戦後になってようやく広まったようです。
戦時中は敵国の飲み物として禁止されていた時期もあったようで、コーヒーの輸入が本格的に再開されるのは50年代後半から60年代初めになってからです。

ボクは幼いころ横浜の山手や本牧に住んでいたので、米軍の「おこぼれ」の一つとしてコーヒーを知りましたが、冒頭でも触れたように「幼い子供に飲ませると知能が遅れる」という実しやかな理由から、原則飲ませてもらえませんでした。
それでも、たまには少量を飲ませてもらうことはあったのです。

叔母の家ではパーコレーターという珍しい器具でコーヒーを沸かしていましたが、その薫りは現代のドリップなどで淹れたのに比べ多少強めで、魅惑の薫りは部屋中に漂っていました。
ボクは大学時代に喫茶店でバイトをしていたので、サイホンやドリップなどでコーヒーを淹れることには、ある程度の自信と知識はありますが、あの時のパーコレーターの薫りはボクの記憶に強烈に刻まれています。いま、アマゾンなどでパーコレーターを探しても、当時と同じものはありませんネ。


Juergen StriewskiによるPixabayからの画像


やがて、日本の社会も高度経済成長とともに食生活も豊かになり、コーヒーを飲む機会も次第に増え、コーヒー人口は拡大していったのですが、この辺りからコーヒー文化に異変が起こります。
インスタント・コーヒーの台頭です。

それは高度経済成長に於いては必然の出来事だったと思います。サラリーマンの生活は時間に追われるようになり、朝食をインスタント・コーヒーで簡単に済ませるようになったことが大きな要因です。こうしてインスタント・コーヒーは全盛期を迎えることになります。

ボクは毎朝食で、食パンにマーガリンをぬり、それを砂糖入りのコーヒーに浸して食べていました。当時はそれが一番おいしい食べ方だと思っていました。
これまで、その食べ方はボクの専売特許だと信じていたのですが、以前テレビの「小さな村の物語 イタリア」の番組で、イタリアの「おじいさん」が同じように食べているのを観て、
「敗けた!」と思いました。
今でも時折、当時を真似ることがありますが、いまは健康のことを考えて砂糖抜きにしているので味は半減です。イタリアのおじいさんは砂糖たっぷり入れてましたネ。


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最近では、イタリアの家庭には必ず一台はあるという「マキネッタ」というコーヒー器具を買って、新たなコーヒーの淹れ方で楽しんでいます。これも上記の「小さな村の物語 イタリア」の番組の影響ですが。
しかし、この「マキネッタ」という器具は本来、カプチーノという濃い目のコーヒーを少量楽しむものなので、どうしてもボクには濃すぎるため、お湯を足して通常のマグカップで飲んでいます。

<マキネッタ>
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幼少のころから、「幼い子供にコーヒーを飲ませると知能が遅れる」と言われつつ、飲み続けてきたコーヒーですが、果たして「ボクの知能は人並みのレベルにあるのかどうか」定かではありませんが、今はその心配よりもコーヒーの利尿作用による「トイレが近い」頻尿現象の方が切実な問題になっている昨今です(笑)。


StockSnapによるPixabayからの画像


以前なら、外出の際は必ず一軒は立ち寄った喫茶店ですが、ここ何年かは利尿作用のこともあってか、ほとんど行かなくなりました。笑い話じゃないですが、最近は街に出かけると喫茶店ではなく、トイレの場所のチェックが優先です(笑)。
喫茶店に入らなくなったお陰かどうかはわかりませんが、小遣いの節約や時間の節約になりましたが、あのコーヒーを飲みながらの30分ほどのひと時はボクにとっては、とっても建設的で貴重な時間だったので、心境は複雑です。
いま風にスタバでノマドワーカーを装う訳でもなく、1、2本のタバコを吸いながら、行き交う人たちをただただウォッチングして、とりとめもない時間を過ごしただけだったのですが、チョッとしたアイデアが閃いたこともありました。人生にはそんな無駄に思える時間も必要なのだと思います。

街に出れば、歩きながらスマホの画面を見つめる人たち、或いは電話をしている人たちをたくさん見かけます。電車に乗っていても、8割方の人がスマホを操作しています。
彼らこそそんな時間を持つべきだと思うのですが・・・

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA


2025年4月14日月曜日

あの頃の横浜本牧

2025年も早いもので4分の1が終わってしまいました。

毎度のことながら、月日の経つのはわたしには快速特急のように速く感じられます。

さて、今年2025年は昭和の元号に置き換えると「昭和100年」に当たるとのこと。
マスコミや書籍などでも100年にちなんだ企画ものが目立っています。
それと同時に、「戦後80年」というフレーズも、テレビを見ていると連日耳にするようになりました。わたしを含め昭和生まれの人たちには、感慨深いことですが、平成や令和生まれの人たちにとってはどう響いているのでしょか。自分自身に置き換えれば、「明治が・・・」「大正が・・・」と言われてもピンとこないのと同じように、若い人たちも同じような感想ではないかと想像できます。

わたし自身は数年前ごろから、やたらと昭和の時代が懐かしく(愛おしく)感じられるようになって、「歳を重ねるとは、こう言うことなんだ!」と素直に納得しております。
それと、いまは亡き両親のことをいつも以上に思い出すのも、「昭和100年」の響きが影響しているのかも知れません。

そんな経緯から、今回は幼少期から20代前半まで過ごした横浜本牧の思い出を記録しておきたいと思い投稿に至った次第です。


Phạm HoàngによるPixabayからの画像


わたしの両親は昭和30年代初めに、念願のマイホームを本牧の一画に建てることができました。
父親の勤め先の住宅斡旋の話を機に決断したようですが、引っ越した当初は周りには家屋が1、2戸しかなく、とても物騒な場所でわたしたち家族はとても怖い思いをしました。
やがて、わが家の周りに家が建ちはじめ、1年程でようやく落ち着いた感じになりました。

この頃、わたしは小学校に入学しますが、学区内の小学校が自宅から遠かったため、6才の子供にとっては、ランドセルの重さと遠距離通学がとても辛かった記憶があります。でも、当時としてはそれが当たり前だったのでしょう。「ランドセルがひとりで歩いてる!」なんて、周りから冷やかされたこともありました。


山手プロテスタント教会


ところで、わたしたち家族が引っ越した本牧は、ご存知の方も多いと思いますが、1960年頃はまだまだ敗戦の傷跡がいたる所に残っていました。皮肉なことに、そうした場所はわたしたち子供の遊び場でもあったのですが、当時のわたしはそれを戦争の傷跡とは分かりませんから、どうして壊れた家がたくさんあるのだろうと不思議でした。むき出しになった壊れたコンクリートの土台の状態から、子供でもその家の間取りがはっきりとわかるほどでした。

そこは雑草が伸び放題で荒れ果てていましたが、チョウチョやトンボが飛び交う格好の場所でもあったのです。
人が住んでいる気配はないのに、何故かゴミが散乱していました。そのなかで一番印象的だったのが、紙製のカラの牛乳パックが落ちていたことで、子供ながらにとても不思議に感じました。
何故なら当時の日本は、牛乳と言えば牛乳配達の人が「牛乳ビン」で配達(宅配契約)するのが通常だったからです。スーパーやお店で牛乳を買うという慣習というか、社会のシステムが、この当時はまだなかったのです。


(こんな感じの跡地がたくさんありました)
Ben KerckxによるPixabayからの画像

現在のような紙パックは当時としては非常に稀だったのです。米国人か日本人でも生活レベルが高い家庭でなければ、紙パックの牛乳を手にすることはできなかった時代だったと思います。

そうなると、あの紙の牛乳パックはどうしてあそこにあったのでしょうか。
未だに謎のままです。

そして、もう一つ不思議な建物があったのを記憶しています。
それはワシン坂という坂を上って行くと左手にワシン坂病院があり、その手前をUターンするように左折し、大きな樹々のトンネルを抜けてゆくと樹木に囲まれてその建物はひっそりと建っていました。子供の目にはどうしても「幽霊屋敷」としか思えないほどに古くさく寂れたお屋敷に見えました。

そのお屋敷は小学校の美術の教科書に載っていた、ゴッホの「オーヴェルの教会」の絵をモノトーン化したような陰湿な雰囲気が漂っていました。それでも子供の「怖いもの見たさ」の悪戯心がはたらき、数人の仲間と壊れた窓からチョッとだけ中を探検したことは覚えているのですが、内部の様子はまったく思い出せません。まるで、そこに棲みついていた魔女か何かによって、その部分だけ記憶を消されてしまったかのように空白なのです(笑)。
30年ほど前に懐かしさからその場所を訪れてみましたが、既にそこは建物の跡形もなく空き地のままになっていました。


ゴッホの「オーヴェルの教会」


思えば、1960年代と言えば、終戦から20年あまりが経過していた訳ですが、当時の日本はまだまだ貧しく、手付かずの場所がいたるところにあったのかも知れません。

東京大空襲は有名ですが、いまは亡き母親の話を思い起こせば、実は横浜にもB-29による空襲はあったのです。

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さて、本牧と言えば、前段でも触れたように、米国人、米軍、進駐軍そして米軍ハウスなどのイメージが強い場所です(最近ではそのイメージも薄れているようですが)。

わたしは5才になって間もなく、本牧に引っ越してきましたが、生まれた山手という地域もまた、外人墓地や洋館などがたくさんあって、米国人をはじめとして外国の雰囲気が漂った土地柄でしたから、わたしは幼少期からそうした異国情緒漂う環境で育ったことになります。

世に言う「ギブ・ミー・チョコレート」の風潮は、わたしたちやそれより若干上の世代が経験した米軍兵士とのホノボノとした交流、コミュニケーションだったのかも知れません。
歴史的には色々と議論のあるところですが、これこそ、駐留軍がいた地域でなければ経験できなかったことです。子供の見方なのであまりに近視眼的と、ご批判されるかも知れませんが、当時の米軍、米国は今よりも寛大で、「さすが大国」と思ったのはわたしだけでしょうか。

当時の本牧には連合国(主として米軍)のハウスがあり、彼らは駐留軍としての特権で、一定の地域を占有していましたから、わたしたち日本人はその地域は立入禁止でした。
3mほどの金網の柵というか塀で仕切られ、金網の向こうは正しく外国(米国)だったのです。横浜ではこの本牧と根岸の高台に彼らの住宅地があり、広大な土地が確保された中で「米軍ハウス」と呼ばれ、つい最近まで住んでいた訳です。


ちなみに、マイカル本牧は彼らが撤退した跡地の一画に建てられたものです。その辺りには、わたしの記憶では「ビーチ球場」という名前の米国人専用の立派な野球場がありました。
そう、ケビン・コスナーの映画「フィールド・オブ・ドリーム」に出てきたような球場だったと記憶していますが、さすがに球場周辺にはトウモロコシは生えていませんでした。金網越しに見るその光景は、まさに憧れのフィールドそのものでした。


Cindy JonesによるPixabayからの画像


確か、夏休みのお盆の時は、「ビーチ球場」は日本人にも開放され、米軍家族と一緒に出店や盆踊りを楽しんだことも忘れられない思い出です。これは基地周辺住民に対する米軍の云わば感謝の気持ちであると、風のうわさに聞いたことがありますが、真偽のほどはわかりません。花火大会なども、ある時期まで盛大に行われていました。いずれにしても、日米親善の意味合いはあったようです。

このように、見るものすべてが当時の日本人からすると、目新しく羨ましいものばかりだったのですが、その最たるものがPX(Post Exchange)の存在でした。
PXとは米軍兵士やその家族のための日用品の売り場、いわゆる現在のスーパーのようなものだったのですが、小学生低学年のわたしには、いまの時代のコストコに匹敵するほどに大きく思えました。

chiplanayによるPixabayからの画像


夕方ともなると、PXの建物はカラフルなネオンサインで煌めき、他のどこよりも明々と輝いていました。建物の前に広がる駐車場には、アメリカのテレビドラマ「サンセット77」に出てくるような大型で派手な色合いのアメ車がズラリと並んでいました。
子供の目には「カッコいい車がいっぱい!」程度に写っていた光景だったのでしょうが、戦勝国「アメリカ」と敗戦国「日本」の大きな格差を象徴する光景でもあったのです。


そんなアメリカを身近に感じる本牧には、彼ら米兵を相手にする商売ができてきたのは当然で 、リキシャルーム、ゴールデン・カップなどのレストラン・バー、ナイトクラブ、娯楽施設がありました。
ちなみに、本牧から多少離れますが元町商店街も、かつては外国人向けのお店がたくさんあり、日本人が入りづらく感じる時代があったのです。
わたしの記憶でも、横浜を走っていた路面電車「市電」に乗って、元町商店街入口辺りを通り抜けるとき、子供心に「あそこは禁断の場所」と、チョッと大袈裟な戒めのようですが、自分自身に言い聞かせていました。


現在の元町商店街の様子


また、現在マリンタワーが立っている辺りにあった「ヨコハマシーサイドボウル」というボウリング場や、元町商店街から代官坂通りを山方向に登ってゆくと右手に見える「横浜クリフサイド」なども当初は富裕層や米軍兵向けの娯楽場だったようです。

このように、わたしたちの生活に密接に且つ身近に存在していた外国(主に米国)の雰囲気。当時子供だったわたしには、善かれ悪しかれそれは極々当たり前の日常だったのですが、戦後という時代背景(占領下を抜け出したばかりの時代)を背負った大人たちにとって、 かつて敵国だった人間がすぐ隣にいるということに、如何ばかりの思いであったかは想像しがたいところです。
ただ、亡き父親の言動を思い起こせば、少なくとも良い感情は持っていなかったことは想像できます。

そんな訳で、当時の本牧という地域は複雑な思いが詰まった街だったのですネ。

マイカル本牧を通り抜け、山手警察署の交差点を右折して200mほど車で走ると、左手に「モーリス」というガレージ(修理場)があります。小学生だった当時、寄り道をして帰った時はいつも「モーリス」の前を通っていました。そのガレージはかつては外車専門の修理工場だったと記憶していますが、嬉しいことにいまも健在で、かつての雰囲気を今に伝える数少ない場所の一つです。

幼少期から青年期を過ごした本牧は、かつての本牧ではないのですが、楽しかった思い出も辛かった思い出も、偏りなく、いまのわたしの記憶の中で生き続けているように感じます。

いまは国産車が主なのでしょうが、そのむかしPX前に駐車していたようなカラフルでドデカい「アメ車」を「モーリス」のガレージ内で見かけると、そんなときは思わず胸が熱くなってしまいます。

最後までお読みいただきありがとうございました。
from JDA